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書籍・雑誌

小田菜摘さん作・椎名咲月さん画『そして花嫁は恋を知る 薔薇の想いは海を越える』(集英社コバルト文庫)

私がこのシリーズの初作『そして花嫁は恋を知る 黄金の都の癒し姫』の感想を綴ってから
もう4年もの歳月が流れてしまいました。

いよいよ店頭でこのシリーズを買うのが不釣合いも不釣合いな年恰好になりましたが
面白いものは面白いので仕方ありません。

8月31日、先週の金曜日に発売となり、早速買いました。

物語は、初作の主人公エイレーネ皇女の異母姉グラケィア女帝の美しい娘、
アンティクレア皇女を主人公として進んでいきます。主人公の想い人となるのは
皇帝補佐官の青年ルキウス。

モンゴル帝国をモデルとした別シリーズにどうしても感情移入できなかったのですが
東ローマ帝国がモデルのブラーナ帝国のお話には素直に入り込めていけるのが
己の狭量さを示すようでもあり、一方で「いや、モンゴル帝国はやはり礼賛に値するものではない」
という思いもあり、でごちゃごちゃした感情を抱いています。

このシリーズ、何作も感想を放置したままのものがあり、いずれ回収をと
思っているのですが、正規の感想を書くとなると相当時間を取られてしまうんですよね。
気力も。それだけ好きで感情移入しているというのがあるのですが。

とりあえず感想第一弾です。

良かったです。主人公カップルに感情移入できるのはいつもながらなのですが。
作者の小田さんは、本当に人の心の優しさと傷付くさまを描くのが上手いです。
そして、いつも流麗な挿絵を描いてくれる椎名さん。アンティクレア皇女、綺麗ですね。

あらためて、ブログでですがファンの一人として御礼を申し上げたいと思います。

本と論文著者の紹介 『ロシア文化の方舟 ―ソ連崩壊から二〇年―』(東洋書店)

先月、2月26日、偶然にも2.26事件の日の日曜日ですが
朝日新聞の書評欄を読んでいて驚愕、驚喜しました。

『ロシア文化の方舟』(東洋書店)という
ロシア現代文化を紹介する難しい書物の書評で
私の大学時代の知友の名前が書中の論文名と
共に載せられて好評を得ているではありませんか!
天下の朝日新聞の書評欄にです!

同書第7章掲載の論文著者のT氏が、その友人です。
ロシア正教の、「古儀式派」という「正統派」から枝分かれした分派の研究を
何年も何年も地道に研究し続けてきた人物です。
ロシア語にも中国語にも通じ、中国東北地方・旧満州の僻地に研究の為に何度も赴いています。

私は学問好きではありますが、語学の壁にぶち当たり、
自分でその壁を乗り越えようとせずに壁を乗り越えることを自ら諦めて
学究の道を放棄して今に至りました。学究の徒ではなく
結局一介のディレッタントであることを今も時折深い後悔と共に苦く苦く噛み締めています。

彼は諦めませんでした。そしてその名が日本全国に知られるに至りました。
彼はキリスト教徒ではありませんが、東方正教会に関する素養は
到底私の及ぶ所ではありません。

主なる神がT君を永久に御守りくださいますように祈ります。

小田菜摘さん作・椎名咲月さん画『そして花嫁は恋を知る 想いは砂色の聖地に集う』(集英社コバルト文庫)が発売です

私が大好きな『そして花嫁は恋を知る』シリーズの最新刊が
今日発売されて早速買ってきました。これから読んでいきたいと思います。

副題は「想いは砂色の聖地に集う」です。
別シリーズの『花嫁の選択』では、
今作で小田さんが今夢中だと書かれているモンゴル帝国
=作中のオルドブライ帝国に、既に何度か述べている自分でもどうしようもない
強烈な忌避感情があってなかなか入り込めなかったのですが
今作はその後裔国のお話ということで割とそのまま読み進めていけそうです。
先祖は先祖、子孫は子孫ですから。
(イスラム教を取り入れて現地と融合するイル・ハーン国がモデルの国が舞台です)。

聖王ルイ9世がモデルのナヴァール王国の王子が登場しています。
「エンタメ」化しているとのことです・・・。
私はそもそも武力で聖地を奪還するという十字軍に極めて否定的なのですが
その信仰心すべてを否定することはできません。
(あくまで武力、暴力を除いてのものです)
しかし全人類の神なる主、という視点でみれば
全ての地、全ての民が慈しみの対象なのだから、
『聖地』を特段重要視する必要もないだろうにという
21世紀のプロテスタント信徒としての想いがあります。
そのため、キリスト者でありながら
エルサレムへ巡礼に行きたい、との思いも
殆どないんですよね。
イスラエルがパレスチナ人を弾圧している当地をわざわざ見に行っても・・・
とも。

聖王ルイといえば、私は当人よりも
毅然として断頭台に登ったかのフランス国王ルイ16世が
付き添いの司祭に「聖ルイの子孫よ、昇天されよ!」と言葉を掛けられて
死に就いたことを想起します。

話は変わりますが小田さんの後書きを読みました。
話の荒筋を知ってしまうことは覚悟して。

実は、小田さんが共感されているモンゴル帝国の人たちの
宗教に対する姿勢なのですが
「テングリ=皇天」や「蒼き狼」を否定されても
「それは汝らの思想信教の自由だな」と余裕を持てるほどのものだったとも思えません。
そういう「思想信教の自由」が近代西欧の思考であることを考慮しても。
これもモンゴルが好きではないことから来る感情かもしれませんけど。

小田菜摘さん作・池上紗京さん画『花嫁の選択 風の国の妃は春をしのぶ』感想の前に その2 小説と聖書 -信仰と史実に敷衍して-

以前書いた『花嫁の選択 風の国の妃は春を忍ぶ』の感想なのですが
なかなか進めません。以前も書いたのですが、
侵略戦争、大量虐殺、集団強姦を是としてきた民族集団
つまり史実のモンゴル帝国がモデルの「オルドブライ」への感情移入が
どうにも無理なんですよね・・・。ほんと、全く同じことを以前にも書いたのですが。
いっそ感想を書くのを諦めようかとも思ってしまいます。

作中、盟約を破り、オルドブライとの国境を侵した「サイ国」
(金朝がモデルですね)の王室が老若男女問わず全員主人公の夫によって
処刑されたことが過去の出来事として述べられているのですが
オルドブライ側からこれが「自業自得」であるかのように描かれているのが余りにも。

侵略戦争を繰り返しているオルドブライ側からは単純明快に
「盟約を破った=死すべし」となるのでしょうが、
敵の侵略の残忍さ、無慈悲さを
思い知らされている側からすれば、その盟約自体信じ難い、
という事情があったかもしれません。

史実ではチンギス・ハーンに皇女を差し出した金朝は開封に遷都したことを
「盟約違反」と謗られて却って大規模な侵略、そして国家の滅亡、皇統の断絶を
招いている訳ですが、金朝としては「飽く無き侵略を繰り返しているモンゴルなど
信用できるか」という言い分があったでしょう。
現に、侵攻してきたモンゴル軍に無血開城したバグダッドでは
アッバース朝のカリフ以下おびただしい人々が大量虐殺されました。

何より、私は皆殺しを善しとする価値観を嫌悪します。
以前読んだ元好問の詩の注釈書に、金の皇族男子たち数百人が開封の都の郊外で
モンゴル軍によって虐殺されるさまを詠った別の詩人の詩が載せられていました。
「頭の白い者も、幼子も皆斬られた」と。
「当時ならそれが当たり前」といういとも単純明快な割り切り方を
私は嫌悪します。数百人も皇族がいれば、さまざまな人が当然いたはずなのです。
尊敬すべき徳ある者もいれば、皇族としての自覚の無い者もいたでしょう。
臣民、そしてモンゴルに対する見方もさまざまだったでしょう。

キリスト者の私がここでいきなり頭に思い浮かぶのが、
イスラム教の聖典コーランの一節なのです。

「人ひとりを殺すのは、全人類を殺すのと同じこと」。

徳性も罪責もさまざまな人間をいっしょくたにして
「金の皇族だから、サイの王族だから死ね」
という考え方、所業を私は激しく嫌悪します。

同じようなことは史上数多、世界中で起きてきたことです。
無論我が日本でも。戦いの際の残忍酷薄ぶりは
決して日本人でも例外ではありません。
(「多神教民族日本人は血を好まない」など
およそ史実に合致しない「神話」だと思っています。)
しかし事例の多さは所業の正当化の理由にはならないでしょう。

碩学・宮崎市定は『大唐帝国』で前王朝の皇族だからと老幼問わず殺害される
中世中国で多発した易姓革命にはっきりとした嫌悪感を示しています。
それに私も倣いたいです。

ここである方は言われるかもしれません。
「あなたはキリスト者ではないか。旧約聖書の民数記やヨシュア記の
『聖戦』-カナン人の皆殺し-はどう考えるのか」と。

私はこの問題について散々悩みに悩んできています。
今も悩んでいます。

悩みに悩んだ私の答えはこうです。

主なる神は、人の心の奥底の奥底まで見通される御方。
その神に偽った心情を述べることは出来ない。

古代イスラエル人によるカナン侵攻が
旧約聖書そのままに史実ではないらしいことは聖書学で示されていますが
聖書を読む際に信徒に求められるのは「そこにあなたがいたらどうするか」だと
思います。歴史を進めつつも時代の制約を乗り越えるのが宗教だと思うのです。

私が古代イスラエル人であれば、まず主にアブラハムがソドム・ゴモラの人々の
命乞いをしたように命乞いをするでしょう。
それでも主が「お前はエリコの住人を老若男女問わず剣にかけて撃ち滅ぼさねばならない」
と命令されたなら、まさに「偽った心情を述べることはできない」
故にこう答えます。

「できません。私にはできません。」と。
(但し、物の見事に血に酔って殺戮に耽る、そんな残忍な己も十分有り得ますが)
それが私の信仰です。ヨブ記にあるように
「神にへつらうことはできない」のであり、へつらうのが不可能なのが主です。

「旧・新約聖書は神の言」、というのが、今日教会で私たち信徒が朗読した
「日本キリスト教会信仰の告白」です。
その神の言になぜあのような苛酷な命令が記されているのか、
私は今でも「何故ですか、主よ」と叫んでいます。

そのような私にとっては主イエス・キリストが
全人類の罪を一身に担って十字架上で贖罪の死を遂げ給うたこと
それが唯一の救いとなっています。過去、現在そして未来
古代イスラエル人もカナン人も、あらゆる人々の罪業を
一身に担って贖い給い、全人類に救いを賜ったことが
主の愛の顕れであり、それこそが全てであると。

やはり面白い『ローマ帝国衰亡史』

今、だいぶ以前に岩さんという方に感想を記すと約束して以来
一度感想を書いたきりだった『ローマ帝国衰亡史』を読み直しつつあるのですが
一文一文がはっとさせられる警句に満ちていてとにかく面白いですね。

暴君コンモドゥス帝が暗殺され、その跡を継いだ明主ペルティナックス帝もまた
暗殺されてしまい、ローマ帝国の玉座が元老院議員二人の間で競売に掛けられるのですが
「勝者」が己の手にしたものにより却って身を危うくしたことに愕然とするさまなど
見事に描かれています。

古来読み継がれてきただけのことはあります。
内村鑑三が渡米した際に鞄に詰めていたのもこの『ローマ帝国衰亡史』でした。

小田菜摘さん作・池上紗京さん画『花嫁の選択 風の国の妃は春を忍ぶ』(集英社コバルト文庫)感想の前に

小田菜摘さん作・池上紗京さん画
『花嫁の選択 風の国の妃は春を忍ぶ』(集英社コバルト文庫)
が先月末に発売になっています。早速買ったのですが
まだ感想を書く準備ができていません・・・。

仕事と教会の勉強会の奉仕のための準備が続いたので
なかなか本を読む機会が作れなかったこともあるのですが
自分の中のオルドブライ=「蒙古帝国」への拒絶感が思った以上に強かったのも
原因の一つでした。

我国への元寇に触れずとも
飽くことなくユーラシア全土で侵略戦争を続け
行く先々で大量虐殺、集団強姦を事とした連中、
という先入観がぬぐえないのですね。
無抵抗で降伏、開城したはずのアッバース朝カリフと
その臣民達への凄まじい残虐行為などを思うと・・・。
当然数の大幅な誇張はあるでしょうが、イスラム史家は
バグダッドで200万人がモンゴル軍によって
殺戮されたと記していたはずです。

作家の陳舜臣さんは『中国史』で
「チンギス・ハーンは決してモンゴル人の誇りではありません」
と記しておられました。後に認識を新たにされたようで
『チンギス・ハーンの一族』などで再評価をしておられますが
私は初期の評価のほうが的を射ていると思います。

史実は史実、ファンタジーはファンタジーと割り切れればよいのでしょうが
この物語の「サイ」王国が明らかに悲惨な最期を遂げた金国をモデルにしているだけに
以前記した元好問の慟哭や、哀宗皇帝の悲痛な言葉が
何度も何度も記憶からよみがえってくるのです。

道傍に僵臥して累囚満ち
過ぎ去る旃車は水流に似たり
紅粉は哭して回鶻の馬に随い
誰が為に一歩に一廻頭するや

道端に疲れはてて斃れた、捕虜となった我が将兵が満ち溢れ
略奪品を載せたモンゴル軍の馬車は水が流れるように限りなく続く
美しい女たちは慟哭しながらウイグル騎兵(モンゴル兵のこと)に引きたてられる
誰の為に一歩進むたびに後ろを振り返るのか
(あなたたちを守ってくれる夫、恋人、肉親はもうこの世にはいないのだ)
―享安山人意訳―


我ながら損な性格だと思います。
同じ理由で種々の「架空の大日本帝国」を舞台にした架空戦記も駄目です。
「いくら小説で綺麗ごと並べても、現実の過去の我国は、我軍のやったことは」と。

しかし、小田さんの作品のファンであることには変わりはないので
そのうち感想を記したいと思っています。

小田菜摘さん作『花嫁の選択 銀の森の姫は風の大地に向かう』感想 現実に敷衍して

先日、私がしばしば感想を書いてきた小田菜摘さんの新作
『花嫁の選択 銀の森の姫は風の大地に向かう』(集英社コバルト文庫)が
発売になりました。
挿絵は『そして花嫁は恋を知る』シリーズの椎名咲月さんに替わって
池上紗京さん。挿絵をシリーズ別にするということのようです。

実は早速買って既に読んでいるのですが、主人公の嫁ぎ先
「オルドブライ」とその皇子アスライ=モンゴル帝国がモデルの架空の国、に
どうしても感情移入できないんですよね・・・。

オルドブライ帝国は史実のモンゴル帝国と同様に、
侵略した各地で抵抗する国家や民族に対しては
徹底的に残虐非道な行いをする国です。
皇子アスライはその先鋒となり、各地で虐殺を命じてきました。

彼は自分の行いが人倫に反することだと十二分に分かっています。
分かっていて父皇帝や帝国の為に虐殺を命じ、
敵の女を配下の兵に集団強姦させてきた皇子の心の痛みを
主人公のイリーナ姫が理解し、癒していくという物語です。

しかし、作中でも小田さん自身が、主人公達が自覚しているように
虐殺される側にとっては、強姦される側にとっては
それを命じた者の良心の呵責というのは、実際にその所業が
自分や愛する人々に対して為された場合何ほどの意味を持つのでしょうか?

アスライにとって人として必要なことは、蒙古=元朝の用語で言うなら
「皇天」と自分が殺戮し、また心と身体をずたすたにしてきた無辜の蒼生(たみ)に
心から罪を悔いて赦しを求めることであると考えます。
そして、その心を実際にこれからの生き方に反映させて欲しいのです。
他国の人々をもう虐げないことに繋げて欲しいのです。

史実での金朝の詩人、元好問はモンゴル軍による凄まじい大虐殺と集団強姦、
そして王朝の滅亡を目の当たりにして叫ばざるを得ませんでした。

「老い去りし天公は真に潰潰」(おいぼれた天の神さまは真にでたらめですね)と。

また金朝の天子、哀宗皇帝が蒙古・宋連合軍に囲まれて自害したことを知ると
「叫断す、蒼梧日暮の雲」
(私は天子さまが崩ぜられた方角の雲も張り裂けよと泣き叫びます)と訴えました。
このような虐げられた側の絶望を思うたび、加害者の罪責の重みは
その個人の内面で解決されるだけではならないと思うのです。

それは現実の我国にも言えることです。
畏れ多いことですが、我が昭和天皇は鄧小平に対し
「先の戦争ではお国に大変なご迷惑をお掛けしました。
ひとえに私の責任です」と述べられて、まさかそのような御発言があるとは
思ってもいなかった鄧小平は大変な衝撃を受けました。

心に思うことを言葉に出し、それを実際の行動に反映させる。
これからのアスライにもそうあって欲しいです。

ふたたび殉教について、そして国教化―『そして花嫁は恋を知る 月の女神は黎明を導く』感想その3

『そして花嫁は恋を知る 月の女神は黎明を導く』の感想その3です。
今回の主題は「再び殉教について、そして国教化」。
この感想も私・享安山人の宗教観を
述べていく形になります。どうか御諒解ください。
またまた長文です。その点も併せて。

帝都近辺では疫病に斃れる人々が相次いでいました。
若き皇帝・皇妃夫妻はその渦中でお互いの想いを確かめ合っていきます。
嘗て奴隷剣闘士だったシリウス皇帝の過去を抉り出してしまった
皇妃イリアティーヌ。罪悪感に悩む皇妃に皇帝は
語りかけます。

「過去はつまらないことではなくても、あまりにもあたり前のことなのです。
あなたも薄々気がついていると思いますが、私のような経験・・・・
いいえ、もっとひどい思いをしている人間は、この帝国中にあふれかえっています。」
虐げられている人々への思いを忘れない二人でした。

おりしも、かの侍女エイレーネの遺体が改葬の途上に奪われたとの報が入ります。
故人と信仰を同じくするルシアン教徒たちが
彼女を崇める余りの行動だと察した皇帝は、
人気が急騰している美少年説教師エルミヤ
(旧約聖書の預言者エレミヤのもじりですね)を
元老院に召喚しました。先日アビリア多神教の大巫女ロクサリアが
暴漢たちに襲撃されて傷を負ったことについても問いただそうと。

暴走した信徒の身代わりになろうとするエルミヤに対し
「自分達だけが正しいと思い込み、他人を害することになんの罪の意識も
抱いていない者達に、お前達の信仰の教義に従って、
なにがまちがっているのかを諭す」ように皇帝は説きます。

地上の生はかりそめのものであり、暴走した信徒達の身代わりになるのは
天上の神によって魂が浄化される道だと説くエルミヤと
皇帝との遣り取りは平行線を辿ります。

(現実世界の一基督教徒の私としては、
地上の生は決してかりそめのものではない
神に与えられたかけがえのないものだと考えますが、
唯物論者のようにそれだけが全てで絶対のものだとは思いません)


そこでエルミヤが発した「至高の存在」との言葉に
傍聴していたイリアティーヌは「帝国にとって油断ならない信仰」だと
「敏感に反応」するのですが・・・。

この反応は、あくまで玉座に皇帝と共にある人間の権力者的発想なんですよね。
皇帝を父として生まれた、皇女にして皇妃たる人間にとってはそうなるのでしょうが
奴隷達にも深い共感を寄せているはずの皇妃としては
余りにも権力者一辺倒の思考形態では、と私は思うのです。
「自分も奴隷達と同じ人間ではないのか」という思考が
できない彼女ではないと思うのですが・・・。

エルミヤは故人エイレーネがルシアン教団によって「聖人」と認定され
その遺骨は聖遺物として永遠に伝えられることを議場で宣言しました。
それ故に遺体はそのまま教団が管理し続けるのだと。

シリウス皇帝は苛立ちを募らせます。
生前親しかった者たちにまず遺体を返すのが先だと。
そして殉教そのものに苛立ちを感じていた皇帝は叫びました。
「ではお前達の教義では、臆病者は正しくないのか?
信仰よりも家族が大事だった者は、信者としてまちがっているのか?
・・・殉教を称えるより、生き延びてしまった者達の心の痛みを
考えるほうが先ではないのか?」


嘗て、カトリック作家の遠藤周作と三浦朱門、そして神父の井上洋治の三人が
江戸初期に多くの信徒達がむごたらしい拷問を受けた
雲仙の温泉を訪ねたことを思い出しました。
硫黄がぐらぐらと沸き立つ熱湯の温泉に身体を漬けられて
肉が溶け骨が見えるまでの凄惨な拷問だったそうです。

遠藤と三浦は「(当時なら)俺は棄教する」と言いました。
井上神父は「わからん」と叫んだそうです。

再び、現実の一基督者としての私は思います。
神は、信仰を守りきれなかった「臆病者」を見放したりはなさらない、と。
その悲惨な苦しみを理解なさらないような御方ではないと
私は信じています。教会の為すべきことは
「背教者・臆病者」を責め立てることではなく
神の慈愛があくまで彼・彼女にも及ぶことを伝えることだとも。

他ならぬ私自身が、そんな状況下では信仰を守るのは無理でしょう。
自分が如何に臆病者であるかは、自分自身がよく知っているつもりです。

皇帝自身も、マシア人として祖国を守るべくブラーナ軍に立ち向かった際
母親が戦勝祈願の生贄にされていました。
その思いが、人を死に追いやる「教義」への怒りがあるのでしょう。

しかし、命より大事なものがあり、同時に命自体もまた尊いものだと
心から知っているエイレーネを死に追い遣った存在、
すなわち帝国の秩序が絶対ということへの懐疑は皇帝には無いのでしょうか。
私は疑問に思います。残忍な前皇妃ファウスタ個人だけの問題ではなく
既にある国家の秩序を絶対不変のものと看做す姿勢、
そこにこそ多くの人々を死へ追い遣った根源があるのではないかと思うのです。
他ならぬ皇帝は一将軍として、信徒達に多神教儀式への参加を勧めた本人です。
その結果エイレーネを死に追いやったことへの悔恨は
確かにそれまでにも語られているのですが、憤激に身を委ねるここでの皇帝は
そのことに思いを馳せていたのでしょうか?

殉教を称えたりしては「死を選ぶことが正しい生き方になってしまう」
と皇帝は言います。では「感想その2」でも触れましたが
前作での皇帝と皇妃、奴隷達の決起はどうなのでしょうか。
死を以て巨大な力に脅迫された時、あくまで生のみを選ぶのであれば
この地上はファウスタのような存在の思うがままであり続けるのではないか、
抵抗すれば死、と分かっていても抵抗せざるを得ない時はあるはずなのです。
今、この現実世界でも、北朝鮮ほかリビア、バーレーンなど、
またマスメディアに取り上げられていない各国で苦痛に満ちた葛藤は
続いているのです。
人の大切にする存在を踏みにじる巨大な暴力に対し
「死を選ぶな」とただ説くことは、
「現実に生きる為にならかけがえのない存在を棄てよ」ということです。
それこそが人間の尊厳を蹂躙することです。
そのような暴力に、そしてその暴力の源に対する怒りを擱いて
殉教の是非を問うこと自体あってはならないというのが
「感想その2」でも記した私の見解です。

疫病が遂に帝都にも広まり、民衆は恐慌に囚われます。
国教であるアビリア多神教の平癒祈願が功を奏しなかったことから
民衆の怒りはアビリアの神々を祀る総本山・万神殿へと向かいました。
暴徒化した民衆は神々の像を破壊しつつ万神殿へ。
皇帝と皇妃は大巫女ロクサリアたちを避難させます。
そこへエルミヤが現れて皇帝に要求します。
アビリア多神教とルシアン教、どちらが帝国の信仰として
ふさわしいのか民意を問うて欲しい、と。

大巫女ロクサリアは沈痛な面持ちで語ります。
「民の支持を得られなくなった信仰が、国教として存在する価値があるとは思いません」

時代の差異を敢えて無視して言うならば、私は「国教」というもの自体に
実は価値を見出せないのです。それが何教であっても。

国家権力の庇護なくして存立しえないような宗教など
宗教として既に死んでいるというのが私の考えです。
宗教とはまさに作中で語られているように
「信仰は自分の心の中にあればいい」のです。
人間の持つもので最も侵してはならない「心の中」にあるからこそ
尊いものなのです。

皇室、王室が信奉する信仰、そして個々の国民の信仰
それらが全く対等の地位を以て遇せられる、
それが私の理想です。ある意味では作中の「レオ勅令」に近いでしょう。
しかし、「国民はいかなる場合でも『国教』の儀礼に参加を強要されることはない」
というのが決定的な相違です。

夜、皇帝は皇妃に語りかけます。

「なにをどう信じるか、なにに生命を懸けるのかは本人の意思です。
それが真実本人の意思であれば、共感こそできなくても
尊重されなければなりません。ですが・・・・
これはルシアン教に限らずのことですが、
国のため、民族のため、信仰のため、そんな理由をつけて、
時として権力というものは、個人に不幸を強要する形になっているのです」

私はどうしても、ここまで分かっている言葉を発するのに、
その怒りが「ルシアン教徒の殉教者達」に向けられるばかりで
彼らに不幸を強いた「国教、そして帝国の秩序」に向かわないのかと
幾度であっても疑問に思います。

「民意」に従ってルシアン教を国教とすることを決定する皇帝夫妻。
皇妃は、帝室がルシアン教に介入できるようにする為に
洗礼を受けることを決意するのですが・・・・。

現実の歴史において、君主ほか為政者が
政治的考慮から信教を決めるのは多々例のあることです。
しかし、ここではイリアティーヌに、己の今までの信仰と訣別する躊躇いがないのです。
「不気味に」感じ「帝国にとって油断ならないもの」であったルシアン教に改宗すること、
今までのアビリア多神教への思い、そういったものが描かれてないのは残念です。
信仰を政治の単なるツールとしてしか見れないなら
エイレーネの思いも、ロクサリアの苦衷も半ば以下しか
彼女は理解できていないのではないかと感じざるを得ません。

物語はルシアン教の国教化、エルミヤが嘗ての「国教」によって
その肉体に耐え難い苦しみを与えられていたことを伝えた後、
皇帝夫妻の愛が確かめられることで終わりを告げます。

「神の名を理由に、これ以上人が傷つけられることがないように
取り計らってください。あなたは誰よりもその痛みを承知しているはずです」

「傷つけずにいられなかった彼の気持ちは、痛いほどにわかる。」
アビリア多神教の神殿によって無理矢理去勢されていたエルミヤに対する
イリアティーヌの言葉です。

私は主人公夫妻の考えについて随分厳しい意見を綴ってきたようです。
しかし、この夫妻は傷付けられた人の苦しみが分からない人間では決してありません。

この物語を与えてくれた方々に感謝したいと思います。

最後に。
後書きで小田さんが、聖バルトロマイの殉教と、
基督教徒による女性学者ヒュパティアの虐殺に触れて
「ものすごく違和感を覚えたのですね」と記しておられます。

信仰・思想によって命を奪われることのむごさを知っているはずの基督教徒が
よりによって聖バルトロマイと同じく皮を剥ぐという形で他者を虐殺する―

これは罪悪以外の何ものでもありません。
歴史上、基督教徒が数多繰り返した罪悪です。
ただ、私に言えるのは、

「主イエス・キリストは断じてそのようなことは命じておられない。
そしてお望みでもない」ということです。

私の尊敬する基督者の先達・矢内原忠雄は戦時下の迫害の中にあって
「迫害は、与えられたならば、これを受けるだけである」と諭しました。
そして「敵を愛せよ。敵もまた人間だ。敵の中にあるところの人間を
愛するのであります。敵の中にあるところの
神の子たり得る可能性を愛するという事だろうと思うんです。」とも。

矢内原に遠く及ばぬ私ですが、そのようにあるべく努めたい、
否、主がそのように為さしめて下さるように祈りつつ生きていこうと願っています。

殉教―『そして花嫁は恋を知る 月の女神は黎明を導く』感想その2

先日記した『そして花嫁は恋を知る 月の女神は黎明を導く』の
感想続編です。またも長文です。
また感想を通じて私の宗教観を述べている点も同じですので
どうか御諒解ください。

主人公の皇妃イリアティーヌは、信仰と主君への忠誠心の狭間で
自害に至った侍女エイレーネの墓に詣でます。

そこで会ったのはルシアン教の司祭ブロウシスでした。
迫害で処刑された人々が殉教者として敬われていることを知ったイリアティーヌは

「闘技場で死を選んだ者達は『殉教者』として信者側では
称えられるかもしれないが、彼らの家族や恋人は、自分よりも
信仰を選んだ『裏切り者』と思うのではないかと考えたのだ。
とたんどす黒い感情が、真夏の雨雲のような勢いでこみあげてきた。
『それもおかしな話だわ。確かに酷過ぎる刑だったけど、
彼等は帝国の法に背き、その結果として処罰されたはずなのに―』
辛辣な言葉の半分は本音で、半分はまったく意図したものではなかった。
信仰を理由に秩序を遵守しない彼らには、皇妃として憤りを覚える。
だからといって、それが処刑や迫害に値する罪なのかと問われれば、
絶対に違うと思っている。」

司祭ブロウシスは言います。
「犯罪者であろうと、たとえそれが
誰かの生命を奪った許しがたい罪を犯した者であろうと、
ひとつの生命が終焉する死というものは、
等しく悼まれるべきものだと思います」
「だからこそ余計、人間の死を他人が評価などするものではない」

「その真意を尋ねることができない死者に対して、
当事者ではない人間が称賛するという行為はあまりにも不透明だし、
なにより彼らに死んで欲しくないと願った人間の気持ちが、まったく
無視されているからなのだ」

前作では迫害の元凶、義母ファウスタ前皇妃に
激しい怒りを覚えていたイリアティーヌですが
ここでは迫害された信者の「頑なさ」に憤りを覚える人物になっています。
ファウスタに怒りを覚えていた同じ少女が、皇妃という権勢の頂に登れば
権力側の視点で物事を見るようになってしまう。
そして、家族や恋人をこの世に置き去りにしてでも、死を選ばざるをえなかった
信徒たちの苦しみに同情する前に、
巨大な権力を用いて人間の生命を奪う側に憤りを覚える前に
弾圧に抵抗する信徒達の「頑なさ」に憤りを覚えるようになってしまう。

主人公イリアティーヌは無論信徒達の死を望むような人間ではありません。
しかし、彼女が侍女エイレーネの死に傷付く余り、
死に追い遣られた人間の苦悶に目を向けなくなっていることは
悲しむべきことです。

イリアティーヌは、墓地で絶世の美少年にして
ルシアン教の説教師エルミヤと出会います。
殉教を称えるエルミヤにイリアティーヌは言います。
「信仰がなんであれ、死者は等しく悼まれるべきものです」

殉教についての私の考えはこの後記します。

折から国教であるアビリア多神教の大巫女ロクサリアが
暴漢達に襲撃を受け負傷する事件が起こります。
暴漢達はアビリア多神教に反感を抱くルシアン教徒でした。

そんな折、イリアティーヌ皇妃はブロウシス司祭を皇宮に招きます。
話はルシアン教信徒達の殉教のことになり、司祭は語ります。
「先の事件で処刑された信者達の死を、いまのように殉教と崇めることで、
それが信者としてあるべき姿、理想的な姿とされ、
果てはそれを強制する形になりはしないかということなのです」
「信念をどのような形で表現するのかは、個人が決めることです。
信仰も含めた信念のためにおのれの生命をかけるということは
崇高な行為ではありますが、それを悼むのではなく
崇めてしまえば、殉教を理想とする風潮が生まれてしまう。
私はそれを懸念しているのです」

ブロウシス司祭は、先の弾圧の際、アビリア多神教の宗教儀式に参加していました。
そのために迫害を生き延びることができたのです。

イリアティーヌは尋ねます。
「あなたは敢えて生を選ぶことで、信者達に手本を示したのですか?」

「皇妃様のおっしゃるとおり、私が率先して死を選んでしまえば、
信者達の数名はあとに引けなくなり、自分の意志も決まらぬまま、
周りから強制されるように殉教の道を選ぶ結果になっていたかもしれません。
そのような配慮は確かにありました。

ですが私の心の中に、死ぬことが怖いという心の弱さがあったことも事実です。
もしかしたら信者達を生かすためにと、言いわけをしたのかもしれません。
実際、私の話を聞いた人間の大半はそう思うでしょう」

「だとしてもあなたが決断をしてくれたおかげで、
いまでも家族や友人と暮らしている信者は大勢いるのではありませんか?」
言いながらイリアティーヌは、その決断をしてくれなかったエイレーネを
やはり恨んだ。信仰に殉じて死を恐れないことが勇気ならば、
裏切り者、背教者のそしりを受けても、家族や友人のために
生を選ぶこともひとつの勇気であったはずだ。

「ですが私はその道を選ばせることで、彼らにたとえようのない
苦しみを与えてしまったのかもしれません」

「生命をかけても守りたいものを失ってしまった人間が、
そのあとの生をどうやって過ごすのかなど想像もつかない。
まして他人に、そんな苦しみを強制する権利はない。」

「他人に、そんな苦しみを強制する権利はない」
私はこの問題は最終的にはこれに尽きると思うのです。

まず、人間に生命を賭さなければならない選択に他者を追い遣る権利はないのです。
そして生命より大事なものを失わせる権利もありません。

私は己の生命以上の価値を信じ、それを命を賭して実践する行為は
やはり崇高なものだと信じます。そして他者がそれを崇高と感じ、
それを行った人間に敬意を抱くことも肯定します。

他者を殉教に至らせた元凶への怒り・憤りを抜きにして
殉教の是非を論じることこそあってはならないと思います。

生命は、個々の生命はかけがえのないものです。
しかし他者の生命を尊重する以前に、自分の生命を至上のものとするだけならば
圧制や暴君、独裁者を前にした時に抵抗する者はいなくなるでしょう。
歴史上、数多の暴君、独裁体制が斃されたのは死を賭してそれに抵抗した
勇気ある人たちがいたからです。
この物語のイリアティーヌとシリウスもそうだったはずです。
前皇妃ファウスタの暴政に対して立ち上がったからこそ、
多くの人々が救われたのです。

生命を大切にするからこそ、時として己の生命以上の価値を
信じることが人には有り得るのではないでしょうか。
但し、それは己が堅く心に秘めておく決意。
他者に強要してはならないものです。

後日に続きます。


ハーバート・ビックス『昭和天皇』(講談社学術文庫)を読み終えて

昨日、長きに亘って読み続けていたビックス『昭和天皇』を読み終えた。
米国人の視点で昭和天皇の言動、事績を厳しく捉えたこの書、
自分が知らなかった事実や昭和の陛下の言動について
そういう捉え方もできるのかと教えられたことも多いが
読み進めていくうちに著者の「共和制=善、君主制=時代遅れ」の
イデオロギー的断罪が目立つようになった。

とりわけ戦後の日本の復興への努力を二重基準だのと片付け
一部を除いて恰も陛下から国民まで皆が
自己欺瞞だけに生きていたかのような解釈には
「日本の65年の歩みをかくも軽く断罪できるとは」と驚いた。

「君主制を彼ら自身の統合の『象徴』にいただくかぎり、
国民は天皇から解放されないということだった。
天皇の戦争責任を追及しないことで、
国民は自分の責任追及を回避したのだった(第17章)」

この書の目立つ点は、昭和20年8月14日の御前会議での
陛下の御発言や、昭和63年4月に記者達が
最後に陛下に拝謁した時の御言葉など
陛下の明確な平和志向の言動は全く取り上げないか矮小化し
また日本国民の多くが自己憐憫だけに捉われていたかのような描写である。

日本国と国民は、敗戦後、日本国家の意思としての戦争を通じて
他国民を殺したことはただの一度もない。
そのような国家とならしめたのは国民と為政者たちの努力の賜物である。
自己憐憫と被害者意識だけの国家国民にそれが可能だろうか?

著者ビックスはしきりに米国と陛下や日本保守派との「共謀」を説くが
自国の防衛を否定された日本が生存する道は米国依存だったというのは
寧ろ最も国家国民の為の選択であったろう。

ビックスはヴェトナム反戦世代の人らしいが、
自由な共和制国家である筈の自国がその後も他国への戦争を繰り返し
イラク戦争に至っては「イラク人を助けたいのです」と大統領が明言し
その結果数十万人を殺戮し、そしてその大統領は
何の制裁も受けていないことについては
どう釈明するのだろうか?ビックス当人は或いは戦争反対派だったかもしれない。
しかし、日本国民をかくも苛酷に断罪したその論法を以てすれば
「あなたは主権者米国国民の一人として戦争を阻止できなかった責任がある。
イラク人が米軍の大空襲で一方的に殺戮されている時に
米国で安全な生活を享受していた罪責がある」
と問い詰めてもいいだろう。

示唆には富むが、批判的に読むことをお勧めする歴史書である。

また、イデオロギー的にはビックスと同じ立場にたつ吉田裕は
解説で各国君主の国際比較の必要性を説いていたが
これには賛成である。

皇太子時代の昭和天皇に具体的に影響を及ぼしたジョージ5世や
ニコライ2世、ヴィルヘルム2世、フランツ・ヨーゼフ1世らが
戦争による惨禍にどう向き合っていたかを今後研究者には
詳細に研究してもらいたい。

私見では、昭和天皇とその姿勢に大きな違いはないはずである。
ニコライ2世は戦争の継続が国民に大きな惨害を強いていることを
十分に承知でありながら退位時の詔書においてすら
「臨時政府に協力して戦争に勝利するように」と国民に呼びかけた。
祖国の栄光を国民の凄惨な犠牲より上に置くのは
当時の君主たち、為政者たちの共通した姿勢である。

それが良いと私は言うのではない。
そのような価値観とは訣別したいというのが私の思いである。
しかし、そのような価値観が当然だった時代の理解なくして
歴史を記すのは難しいだろう。それを抜きにすると
歴史上の人物の伝記は概ね断罪に次ぐ断罪で終わるであろうから。

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