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将基面貴巳『言論抑圧―矢内原事件の構図』(中公新書)の紹介

将基面貴巳『言論抑圧―矢内原事件の構図』(中公新書)を読了。わたしの尊敬してやまない矢内原忠雄の、東京帝大教授辞職事件を矢内原だけでなく、対立派の土方教授や、事態収拾を図った長与総長などの視点も含めて描いた労作。矢内原の抱く愛国心のあり方が現代でも議論を豊かにする上で有益と説く。

国家を超えた正義と理想があり、現実の国家が正義や理想に反する場合は、国民は国家を批判しつつ現実を少しでも理想に近づける努力をせねばならないと説く矢内原の姿勢は、軍国主義にひたすら追随する土方成美や国体を信仰対象として国家への批判を「侮日」として排撃する蓑田胸喜と鮮やかな対照を見せる。わたしは無力な人間に過ぎないが、矢内原に深い共感を抱く。土方や蓑田のミニチュア的存在が大手をふるうようになった今だからこそ。

現実の国家が内外の人々の尊厳を蹂躙する例は余りにも多い。

そして告白するが、書中引用されている矢内原日記の一節に、
思わず声をあげて泣き出しそうになった。
無教会主義ではないが、基督者の端くれとして。

休息を望む。慰めを望む。そしてなお、苦難と困難ばかりを抱えるのだ。私は弱い。―しかし私は神に捕らえられているのだ。ああ、これ以外ではありえないのだ。

あれだけ激烈に戦われた矢内原忠雄先生が内心ではこれ程苦しんでおられた。
そしてなお、この苦しみを乗り越えて戦われたのである。

懦弱なるわたし・享安山人の情けなさ!わたしの苦しみなどいったい何なのだろうか。

著者に深く感謝します。

そして基督者の端くれとして、このような労作にめぐり合わせてくださった
主なる神に心から感謝します。

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歴史・宗教」カテゴリの記事

コメント

こんばんは。
紹介されている本、私も読みたくなりました。
今のこのご時世、矢内原忠雄から教えられることは本当にたくさんあると思います。

矢内原氏はただ闘っただけではなく、信仰をもって、ただ神様を信頼して闘い抜かれた。私は人のことは言えませんが、今のキリスト者に欠けているものを矢内原氏を通してどんなに多く教えられることでしょう。

矢内原氏の「休息を望む。慰めを望む。そしてなお、苦難と困難ばかりを抱えるのだ。私は弱い。―しかし私は神に捕らえられているのだ。ああ、これ以外ではありえないのだ。」というこの言葉に、私も心を打たれました。

愛希穂さん、こんばんは。

この本の著者の恩師はもう天に召されましたが、矢内原忠雄の弟子の一人で、それが著者が矢内原を研究する原点になったそうです。そしてこの著作を通じて矢内原の姿がまた平成の今、広く人々に知られることになりました。矢内原先生ご自身の本が残念ながら殆ど新刊本では無くなってしまった今、こういう形で先生のことが伝えられたのはうれしい限りです。

著者は矢内原を「ヒーローとして描くつもりはない」とのことだったようですが、矢内原への温かい眼差しが各所に感じられます。一人の人間としては弱く、しかし信仰によって強められた先人。

主なる神が矢内原忠雄という一人の人間を通じて今も多くのことを私たちに教えてくださっていることには本当に感謝です。主イエスの無限の愛、信仰の重み、平和の尊さ、個々人の尊厳、人間にも国家にも理想が欠かせないこと、等々。ただただ感謝ですね。

最近読んだ本。

日本の精神性と宗教 (2006) 創元社
河合 隼雄 (著), 橋本 武人 (著), 鎌田 東二 (著), 山折 哲雄 (著)

そんなに大した本ではないと思いますが、このテーマの本を読んだことがなかったので目新しかったです。もし明治維新以前の日本思想史に関する本で良いものがあれば教えてください。

なお、社会主義朝鮮のことを知るために、雄山閣『金日成主席と韓国近代史』をお勧めします。

明治維新以前の思想史なら、吉田松陰から遡って、思い切って原典を当たってみるのも良いと思います。わたしが僅かばかり触れたのは史論、儒学関連です。ただし多くが現代語訳か、原文でも注釈付きの文章によります。

新井白石『読史余論』は面白かったですね。ああ、幕臣にとって歴史はこう解釈されるのだ、と。幕臣の目から見た日本史、徳川幕府を擁護する著作。日本古典文学大系にある『近世史論集』の『大日本史』の諭賛集は、皇国史観がどういった考えの下まとまっていったのかを教えてくれます。そして、皇国史観の源流は単純な天皇美化ではないことを。儒学が判断基準であるだけに、歴代天皇への見方はかなり厳しいです。

北畠親房の『神皇正統記』は著者の皇室への忠誠心と共におそるべき博識に驚嘆しきり。殆ど記憶力だけを頼りに書いたそうです。そして神道、仏教、儒学の混ざり合った世界の良く言えば豊饒さ、悪く言えば混沌ぶりを教えてくれます。また、皇室といえども不徳の行いはある、「上の御咎」、と明言する公家の自由な精神性は、忠誠心が確固としたものだけになおさら光りますね。

「史学に益なし」とされる『太平記』を始めとした軍記物語は、史実そのものを知ることはできずとも、「当時の人がその事件をどう捉え、どう考え、どう感じたのか」を知る最高の素材です。現代人にも共感できる箇所も多々あります。
「我百年の命を棄て公が一日の恩に報ず」と書き遺して討死した北條氏の重鎮のうるわしい心など。『承久記』では、後鳥羽上皇に見棄てられ絶望した武士の「魂のほとばしり」があります。

『保元物語』岩波文庫版にある死刑廃止論は、まとまった形としてはおそらく日本最古の死刑反対論ですね。「死刑を行うような政治だから乱が起きるのだ」との言葉は今でも通用するでしょう。わたしが死刑廃止論に与するようになったきっかけの一つです。

北朝鮮の準官撰書には、率直に言ってあまり興味がわかないのですが、かの国が自国をどう捉えているのか知るには有益かもしれないですね。

朝鮮が日本をどうとらえているのかについてですが、歴史については、

http://www.akashi.co.jp/book/b64907.html

日本帝国主義の朝鮮侵略史(1868-1905)

征韓論台頭から乙巳五条約(保護条約)捏造まで
朴 得俊 編
梁 相鎮 訳

これが良いと思います。朝鮮の歴史学者が書いた本を在日朝鮮人が翻訳したものです。朝鮮の対日歴史観が分かります。もちろん1905年以降も重要なのですが、1905年以降についてのまとまった日本語の本が見当たらないので…こんど聞いてみます。

ぜんぜん違う内容の本ですが、興味深そうに思えるので紹介します。

三土修平氏は経済学者で僧侶(華厳宗)です。東京大学卒後、経済企画庁キャリア官僚。退職後、神戸大学大学院経済学研究科で置塩信雄の下で学ぶ。経済学博士(神戸大学)。愛媛大学教授を経て、東京理科大学教授。


いま宗教にできること、できないこと 単行本 – 2011/2/1
三土 修平 (著)
¥ 1,944

単行本: 214ページ
出版社: 現代書館 (2011/02)

著者からのコメント
本書は東京理科大学教養科目「現代社会事情」の「現代日本における『聖』と『俗』」というテーマの講義から生まれた本で、オウム真理教事件以降の時代状況の中で、宗教的なものの存在理由をあらためて見つめ直す必要性の訴えとか、現代日本人の宗教音痴が仏教界の堕落を助長している「戒名料」問題とか、わが国で宗教家の立場からする死刑廃止論が案外世の中に対する説得力を持ちえていない現実を受け止めて、死刑廃止論の陣容を立て直すためにいま何が急務であるかなどを、取り上げたものである。
とりわけ、凶悪な殺人事件が世間の耳目を集め、「犯罪被害者や遺族の人権がなおざりにされている」という世論が盛り上がる時代状況の中で、死刑の存廃について学生に意見を求めると、存置論に与する者が年ごとに増えてゆくという現象をまのあたりにして、私はそこに含まれている思考回路のひとつの短絡について、学生たちに注意をうながさずにはいられなくなってきた。
そうした短絡的思考がまかり通る背景には、現代日本人一般が色濃く持っているひとつの病理があるのではないかということに、授業を進める中であらためて気づかされた。それは、1996〜7年の在ペルー日本大使公邸人質事件が武力解決で幕を閉じた日(1997年4月23日)に日本のマスコミが示した態度のうちに現われていた病理である。前日まで「人命尊重、武力解決反対」をお題目のように唱えていた日本のマスコミは、いったん武力解決が選択されてしまうや、昨日までの主張はどこへやら、ただただ嬉々として「日本人の人質は全員が無事」と伝えることだけに熱中してしまった。シンガー・ソングライターの中島みゆきは、この事実に衝撃を受けて、この事件への感想を「4.2.3.」という長いバラードに歌い上げたが、私もそれを聴いて「なるほど」と思ったものである。
つまり、われわれ日本人の多くは、「人命尊重」等の崇高な美辞麗句を、一見普遍的な価値として称揚するかのような態度をとる場合でも、内実においては、案外その時その時における自分の「身内」や「味方」の特殊的利害の観点からそれを利用することしかしていないのではないかという反省だ。その反省から生まれたのが本書の後半の叙述である。
この問題を突きつめてゆくと、つまるところ現代日本社会における「聖」なる領域と「俗」なる領域の未分化、混同という問題に突き当たる。死刑廃止論も、そうした未分化、混同を脱しえない範囲内で立論されているかぎり、説得力をもちえないのは、しかたのないことだということにも、思い至るのである。
このようにして、キリスト教の言葉でいえば「カイザルのものと神のもの」(仏教の言葉でいえば「王法と仏法」)を弁別する知恵こそが、今日の日本人には喫緊の課題として求められているのではないかということを、私は声を大にして訴えたくなったのである。
さらにこれに関連して、わが国の高校までの社会科教育の不備のせいで、現在の理科系の大学生の大多数が、死刑の存廃という重大問題を論じるにあたって、「損害の償い」と「罪の償い」の区別(民事責任と刑事責任の区別)すら知らないまま議論をしているということをも、大いに問題であると私は感じたので、その点をも本書では強調しておいた。
これによって、わが国での死刑存廃をめぐる議論が、低次元の水かけ論を脱して、存置にせよ廃止にせよ、今よりも一段高いレベルで論じられるきっかけを作ることができるならば、著者の幸い、これにまさるものはない。

>日本帝国主義の朝鮮侵略史(1868-1905)
征韓論台頭から乙巳五条約(保護条約)捏造まで
>これが良いと思います。朝鮮の歴史学者が書いた本を在日朝鮮人が翻訳したものです。朝鮮の対日歴史観が分かります。

北朝鮮国内でも金王朝礼賛イデオロギーを除外すればわたしが知らないだけの優れた学問的業績が多々あるのでしょうね。どんな体制下でも学問に真摯に向き合う人士は古今東西無くなることはありませんでした。

図書館で探して読んでみます。金一族独裁体制への批判に見せかけて朝鮮の民族、一般民衆、歴史、文化を侮蔑するような言説とは大きく距離を置きたいと考えております。

三土教授の著作も、著者の官僚としての経歴もさることながら、華厳宗の僧侶が死刑廃止論とどう向き合っているのかに興味があります。罪の贖い、赦し、懺悔、そしてどうしても加害者を赦せない被害者の思い。重過ぎる課題が山積していますが。

なお、毛沢東が誇らしげに「土豪劣紳」を銃殺したことを語っている書に接し、人命尊重という点での社会主義の限界をあらためて感じています。

私は金日成同志は偉大な革命指導者だったと思いますが、確かに「民族主義の行きすぎ」といった面がないとはいえません。
朝鮮民族は事大主義に悩まされ、さらに植民地支配を受けたことから、民族的誇りの回復のために民族主義が必要だったことは否定しません。しかし「過ぎたるは及ばざるがごとし」です。
一例をあげるなら、「漢四郡」の解釈です。「漢四郡」は衛氏朝鮮を滅ぼした前漢の武帝が朝鮮半島に設置したものというのがほとんどの歴史学者の解釈ですが、共和国では「漢四郡」が朝鮮半島にあったことを否定し、遼東半島にあったものとする解釈になっています。これなどは「民族主義の行きすぎ」だとは思います。
しかし、共和国も金日成主席の晩年から徐々に変わってきています。金日成主席は晩年に『金日成回顧録 世紀とともに』を著しましたが、そこではそれまで否定されていた「金日成の中国共産党入党」が史実に沿って記述されていることをはじめ、それまでの行きすぎた金日成主席賛美の宣伝を抑制しようという方向性が明らかに見えます。
共和国は近年ではさらに開放的になり、海外の学者を招いての討論会や共同研究といったことが盛んになりました。共和国も自ら変わろうと模索を続けているのです。

>毛沢東が誇らしげに「土豪劣紳」を銃殺したことを語っている書に接し、人命尊重という点での社会主義の限界をあらためて感じています。

これについては私は全く違う感想を持ちます。私は革命後の毛沢東は指導者の器ではなかったと思いますが、革命前の中国の恐ろしい後進性を考えるなら、「土豪劣紳」を処刑することはどうしても必要だったのです。これは特に社会主義に特有のものではありません。社会主義思想と何ら関係がなくても、農民蜂起で地主一家が虐殺されるなど世界中であったことではないでしょうか?

革命前のチベットも、想像を絶するほどひどい社会でした。支配層には統治能力がなく、ダライラマが幼年の場合におかれる摂政の位を巡って高僧が抗争を繰り広げ数百人以上の死者が出たり、ダライラマのほとんどは成人前に毒殺されていたりするわけです。チベットを近代化するために、相当手荒な手段が必要だったことは想像に難くありません。

イスラーム世界でも、近代トルコ建国の父ケマルは近代化に抵抗するイスラーム主義者を多く処刑していますね。これは必要な処刑でした。

私は必ずしも人命尊重が第一だとは思えません。人命よりも正義が大事です。ロベスピエール同志やレーニン同志などは正しかったのです。

わたしは正義の為にこそ人命は重んじられねばならないと考えます。
人間が人間を尊重することこそが正義の根幹です。

人命を奪ってもいいという正義をだれが判別するのでしょうか。革命政党か党幹部でしょうか。罪人の頭、汚穢下賤のこの身ですが、基督者の端くれの私からは主なる神以外にそれを判別できる方はおられません。

私自身現在世上でわが世の春を謳歌している為政者や財界人、言論人に激しい殺意、敵意を抱くことがよくありますが、それを思うことも、ましてや実行に移すことも主なる神の御目からは罪に他ならないでしょう。

地主一家にもいくらでも善良な子女はいたことでしょう。純粋にイスラームを信ずればこそカリフ制を廃止したケマル・パシャを許せなかった人士もいたことでしょう。国王一家、皇帝一家を王子王女まで惨殺する必要などありませんでした。白血病の一人の少年皇子の人権すら守ろうとしなかったレーニンに何千万人もの人権を守ることなど出来なかったのです。それはソ連の歴史が証明しています。

私は死刑反対論者ですし、非戦主義者でもあります。そのことをあらためて自ら確認するものです。

>国王一家、皇帝一家を王子王女まで惨殺する必要などありませんでした。白血病の一人の少年皇子の人権すら守ろうとしなかったレーニンに何千万人もの人権を守ることなど出来なかったのです。

これについては、断固反論したい。
当時、白軍との内戦中であったことはご存じですね?革命政権は、白軍に「生きた旗印」を与えることはできなかったのです。だから、皇太子アレクセイに罪があろうとなかろうと、王室全員の処刑は必要だったのです。これは将来の日本革命においても同様でしょう。
もちろん、内戦という状況がなければ、旧皇族に避妊手術をしたうえで再教育して、愛新覚羅溥儀のように生まれ変わらせることも可能でしょう。

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