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惨惨として肺腑を憂へしむ

「城内でわたしはうつらうつらと毎日毎日酔いしれ歌やおどりにふけっていた。

ひとたび城門を出て、民のくらしぶりを目にすると、あまりのむごさに胸のつぶれる思いだ。
                                 (惨惨として肺腑を憂へしむ)

去年は夏から秋にかけて日照りつづきだったが、それでも七月にはきびの穂が出ていた。

ところがある晩、軍隊がやってきて野営した。するとそのあくる朝はただ一面のだだっぴろい土。

人の狩りあつめは流星よりも気が短く、税の滞納に対しては、鞭に手をかけての催促。

法網は高くはりめぐらされている、どこか楽土に引っこもうにもそれはいったいどこにあるのか。

穂を食い荒らす穀つぶしめは百種もあり、人間をえらびとって食うのは一頭だけの虎ではない。

天に訴えても天も聞いてくれないとすれば、わたしの遠まわしの詩など何の足しになろう。

この寒空にひとえの着物でいるのはどこの人か、

米の行商で南のまちまで買い出しにいくブローカーだ。

身を粉にしての懸命さはただ一息つくだけのこと、

すき好んで遠くまであきないに出かけるのではない。

うねうねとつづく雁門の道、雪につつまれた谷は深くかつけわしい。

峠半ばにして向うからあえぎあえぎ車がやってきた、人といい牛といい、全く何と辛いことか」

          (元好問「雁門道中所見」小栗英一訳 『中国詩人選集第二集9』岩波書店)

蒙古の太宗オゴタイが世界征服の野望の故に、
かつて金朝を滅ぼす為に手を組んだ筈の
宋朝を征服せんとした時の詩。
戦争に駆り出される民衆を目の当たりにした金朝の遺臣・元好問の苦悩が切々と迫ってくる。


金が滅んだ後、宋の理宗皇帝は金の哀宗皇帝の遺骨を徽宗皇帝、欽宗皇帝の霊前に供えた。
それで祖宗の復讐を果たした、恨みを晴らしたと自己満足に耽ったのだろうか。

金亡国の100年前の靖康の変は、宋朝にとってはまさに目をおおわんばかりの惨劇であった。
徽宗・欽宗の二帝は虜囚となり、多くの人士が強制連行され、皇室の女性をはじめ
あまたの女性が勝ち誇る金人に凌辱された。絶望の果て自ら命を絶った人もいた。

戦争のたびに古今東西繰り返された非道。
我民族もまた加害者であり被害者でもあったあったつらい歴史を持つ。
ここで「どの国、民族でもやったことだから、敵もやったことだから」と自らを免責するか
つらい過去を苦しみながら自国の責めと認識するかが分かれ目であろう。

しかし、どの国家も民族もそれを復讐合戦で怨嗟を晴らす名目としてはならないのだ。
100年前のことを自身の責めとされた哀宗皇帝もまた余りにも不幸というほかない。
ましてや、その100年間、宋と金は惨酷な経緯を乗り越えて共存していたのだから。

一部の人々に莫大な利益をもたらす戦争というのは確かにある。
その栄耀栄華の陰に苦しむ人々を思うとき、
そのようなものは時代を越えて否定せねばならない。
「狩りあつめ」られて戦場に一兵卒なり人足なりとして送られて
虚しく死ぬほかない人間としては特に。

わたしはやはり反戦主義者、非戦主義者なのだとあらためて思う。
しかし先人から学び得ているものは余りにも少ない。

内村鑑三、矢内原忠雄たちの跡を継ぎたい。


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