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復活節(イースター) 主を仰ぐ

今日は、主イエス・キリストが十字架に就き給いた後の3日目に復活されたことを記念するイースターの日です。

おそらく現代人の圧倒的大多数が、死者が3日目に復活、顕現して天に昇るなどありえないと思うことでしょう。

それを真剣に、約2000年前に起きたこととして信じ、イエスの生前の教え、十字架上の贖罪死、そして復活、さらには再臨に一切の希望を託すのが基督者です。こればかりは信じるしかない性質のものです。ナザレのイエスを偉大な倫理の師範と見る考えは受け容れられても、信仰上のことは受け容れがたいという人が多数だとわかっていても、基督者の端くれとしてはそう信じると公に言うほかありません。

すべての人々が神に嘉される、祝福の対象となる希望をわたしは主に託すものです。

十字架上でわが罪を一身に担い給うた主を仰ぎつつ、神と他者への愛に生きることを祈ります。

愛に生きるとはわたし自身の能力と精神ではまったくの不可能事です。心理学をかじればかじるほど、わたしに内在する罪は心理学的には潜在的自己愛性人格障害になると自覚せざるを得ません。ドストエフスキーは「世界が滅びようとも自分ひとり優雅に紅茶をすすっていらればそれでいい」という人間を描いたそうですが、わたしこそそうであることを告白するものです。そんなわたしでも、主を他の弟子同様裏切り、見棄て、逮捕を免れる為に主を呪う言葉まで吐いた一番弟子のペテロが、再び主に用いられ、愛に生き、最期は「行きたくないところへ連れて行かれる」 ことにより主と万人に奉仕したようなことがあるかもしれません。

ペテロの「(Domine, quo vadis(主よ、何処へ行き給うや)」の伝承は聖書には記されていませんが、思い返すたびに涙を覚えます。
(帝都ローマで暴君ネロによる基督者への大迫害が起こり、初代教会の指導者であったペテロはローマからの脱出を図る。道すがらペテロは主イエス・キリストが自分とは逆にローマへ行こうとされているのを目撃する。思わず「主よ、何処へ行き給うや」とお尋ねすると、主は御答えになった。「お前がローマの信徒たちを見棄てるというなら、わたしがローマに行き、もう一度十字架にかかろう」と。ペテロは我に返りローマに戻り官憲に逮捕されて殉教する。後世の信徒はペテロを「初代ローマ教皇」と呼んだ。)

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