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歴史を偲ぶ 八幡市背割堤にて

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先週、休日を利用して京都府南部の八幡市にある「背割堤」を訪ねた。木津川、宇治川、桂川の合流地点中州にある堤防に数キロにわたり桜が植えられており、わたしが訪ねた時は既に葉桜になりつつあったが、それでもその美しさを味わうことができた。河川敷の一角には屋台村があり、定番の焼きそば、たこ焼きをはじめ手作りパンや韓国料理のチヂミを楽しむこともできる場所となっていた。食という最も生活に密着したものから隣人とのわだかまりが少しでもほぐれていけばいいと祈る。

対岸には幾度も幾度も歴史の舞台となった男山、石清水八幡宮のある小高い山を望む。

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保元の乱の後、後白河天皇が一切の罪責を兄の崇徳上皇、そして左大臣藤原頼長に押し付けた上での戦勝感謝の願文を奉納した神社であり、後村上天皇が自ら甲冑をまとって出陣し足利軍の矢を受けた場であり、孝明天皇が将軍家茂を従えて攘夷を祈願した場でもある。京の都の中心地から徒歩ではそれなりの距離である。正平の一統の時、北朝の光厳上皇、光明上皇、廃位されたばかりの崇光天皇、そして東宮の地位を奪われた直仁親王が無理やり連れてこられた場でもあったはずだ。牛車か輿に乗せられての「遷御」だっただろうが、ただ不安と苦悩の道中だったのではと想像する。南朝の天皇と北朝の上皇方、元東宮は八幡宮の社で対面したのであろうか。どんな言葉が交わされたのか。

下流には後鳥羽上皇が詩歌管弦に興じた水無瀬離宮の跡があり、今は水無瀬神宮となっている。承久の乱では院宣に応じて命を賭して戦った官軍の将士をむごくも見棄て、忠義の士に一転賊軍の汚名を着せ自らの保身を謀った後鳥羽上皇。紛れも無い文武両道の天才であった上皇が、帝王の尊厳をかなぐり捨ててまで、なぜみじめな保身に奔ったのだろうか。梁の武帝のように堂々と叛軍を引見することもできただろうに。『梁書』や『資治通鑑』を上皇が御覧になっていたかは分からない(抄訳だが資治通鑑(平凡社)に高校時代触れることが出来たのは今でも感謝している)。

「もしかして、『東夷』によって御自身に最悪の事態が起こることに怯え、怖れおののかれたのだろうか」とも。『洛陽伽藍記』にある魏の孝荘帝の悲惨な最期などが脳裏をよぎったのかもしれない。古今の不吉な事例の想像が一挙に襲い掛かってきた事もあり得る。それでも帝王であれば、忠義の士には誠を尽くして頂きたかったと後世の人間のわたしは残念に思う。


堤の端で、基督者のわたしは主なる神にさまざまなことについて祈りを捧げた。祈ることが出来たこと自体、感謝である。

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