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旧約聖書『イザヤ書』を読みつつ

休日の今日、外出で行き帰りの電車内で旧約聖書『イザヤ書』を読んでおりました。
実は例によって尊敬する矢内原忠雄の聖書講義『イザヤ書』を鞄に入れておこうとしたのですが

「矢内原のような義人が己を預言者イザヤと重ね合わせて
自らを叱咤激励しつつ軍国主義の世に警鐘を鳴らした聖書講義は
罪深い私には相応しくない」という思いが生じて、持って行くのをやめてしまいました。
これまでの人生、そして今を振り返り、自分が神と人とに対して罪を犯す
本当にどうしようもない人間だという罪意識が
ことのほかつのっていた為です。宗教者である私は
主なる神に赦しを乞い、憐れみを求めるほか生きる道を知りません。

そこで旧約聖書『イザヤ書』そのものを読んでいたのですが、自分の思いが
まったくの過ちであることにすぐ気付きました。

「災いだ。わたしは滅ぼされる。
わたしは汚れた唇の者。
汚れた唇の民の中に住む者。」
(イザヤ書第6章5節)

イザヤ本人が自分が「汚れた唇の者」であることを深く自覚していたのです。
その口から語る言葉が、他者を傷付け、侮るものであったことを弁えていたのでしょう。
そしてこの書が神からの裁きを畏れるべきことだけではなく、救いを呼びかけ、
すべての人々を救いへ招こうと、招こうとしている神の宣言なのだということにも
気付かないでおりました。

矢内原忠雄が1940年(昭和15年)に聖書講義誌『嘉信』に記した言葉。

「ナチス思想にありては、民族は結局血液に帰着せしめられる。故に結婚が
何よりも重要なる国策であり・・・正義の根底を人間の自然的本能に置くものである。
基督教の正義観は全然之と異なり、血脈によらず、肉の本能によらず、
人間的慾望によらず、ただ神によりて新に生れたる者のみ、真理を知り正義を知るものと為す
(ヨハネ伝1の13)。国を興し人類を救ふ原理の之れ以外になきことは、
われらの一貫せる固き主張である。

曾てマルクス主義の流行したる我が国に、今はナチス思想が流行している。
曰く、国家を離れて学問の為めの学問、真理の為めの真理はない、民族を離れて信仰はない、
民族の生くることが即ち正義である等々。政治上の必要が学問的真理よりも優位に置かるる時、
そこに奨励せらるるは応用的学問のみであつて、純粋なる理論の研究は閑却せられる。
同様に宗教は現実美化論となり、霊的信仰の純粋性は失はれる。
ナチス思想の下にありて、学問と思想の退歩を結果することは、蓋し明白である。

民族的傲慢と唯物的思想を棄てなければ、国民の道徳的進歩はない。
基督教を信ぜずとも、せめてその位のことが日本国民に解らないのであらうか。」

これを一読して思ったこと。
「矢内原さん、あなたはなぜここまで勇気を持てたのですか。」と。
1940年(昭和15年)という、日独伊三国同盟が締結された年に
ここまでのことを言える勇気。
そして、この私がいかに、血脈はともかく、肉の本能と人間的慾望によって生きていることか。

以前にも伝えた、死の床での矢内原の余りにも悲痛な叫び。

「しみじみと思い出されるのは自分の罪である。生れつきの悪い性質、悪い行ない、
メフィストフェレス的な巧妙な論理づけをもって人を欺き、おのれを欺き、
自分の厭う虚言を敢えてするなどわが身とわが生涯は罪の塊りであることを思う。
多少の善行を為し、多少人を助けたことがあるにしても、神と人に対して犯した我が罪を
補うことはできまい。それは、罪は部分的、分量的なものではなく、その人に不可分な、
本質的な、人格的なものであるからである。
詩篇第五十一篇に、「視よわれ邪曲のなかにうまれ、罪にありてわが母われをはらみたりき」(五節)
とある。この言葉の意味を長らく私はよく悟ることができなかった。ダビデの母が非行によって
ダビデを生んだとは思えなかったからである。しかし今度自分が病気の中にほうりこまれて、
自分の秘かな生涯を考え、生れつきの私の性質の中に如何に卑しむべきもの、
肉情的なものがあるかをつくづく考えて悲しくなったとき、ダビデの言葉の意味も解ったような気がした。
人前に公けにされない自分の言葉や行ないを考えればその実体は罪人そのものであって
とても人に真理を語る資格はない。病気による徹底的無力化は私をこのドン底にまで
突き落としたのである。私の不義と虚偽は一切神の前にさらけ出され、私は自分の不義と虚偽を
言いあらわすより他なかったのである。
 その時、不思議な考えが私に臨んだ。
生れつきの悪い性質、少年時代から今に至るまでの悪い行為、
メフィスト的な詭弁による肉慾の追求など、それ等一切を含めて
神は十字架の贖いによって私の罪を赦し、潔き新しい心を私の中につくり、私を全く別人としての
神の御用の為に用い給うたということである
。生れつきの傷はソーダや石鹸を以ていくら拭いても
拭ききれない。然るに神はこれを赦して、清い心を私の中につくり給うという。そしてそれもまた、
その通りの事実である。私は自分の生れつきの手と、神から新しい潔き心を以てつくられた手を
並べて見て、涙が流れて仕様がなかった。神は思わぬ病気によって私を大地に打ちつけ給い、
私を全く無力、無抵抗の者と為し給うたが、信ずる者には望みがあり、
そして信仰による働きの実を神が喜んで受け入れ給うことを知った。
・・・ただ醜い自分というものの実体を示され、それと共に、かかる者を許し給う神の愛を
感謝するのである。罪人を赦して下さるということが如何に自然を越えた大きい愛であることに驚く
。」
(矢内原忠雄全集第14巻 691-693頁)

この矢内原の叫びは自分のものであり、また自分のものとせねばならぬのだと
痛いほどに思った今日でした。

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