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聖書の御言葉と先人の言い遺した事に励ましを受けて

「命あるものの地にある限り
わたしは主の御前に歩み続けよう。
わたしは信じる
『激しい苦しみに襲われている』と言うときも
不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。」

(旧約聖書詩編第116章9節-11節 新共同訳)

日々仕事が続く中、時折どうしようもない苛立ち、不安、他者への猜疑心に
囚われることがあります。
説教者としてキリスト教界では有名な加藤常昭牧師は
キリスト者であることは「損をすることだ。」と言い切っておられます。
覚悟を持つように勧めるその言葉は、まこと欠け多い私には時に耐えがたく、
また「自分は主観的には真面目に勤めているつもりだが
これは他人にうまいように利用されているだけではないのか」との
「それでも基督者と言えるのか」と言われても仕方ないような
醜い猜疑心が湧き起こります。何度打ち消しても起こる猜疑心です。

そんな時に帰宅途中のバスの中で触れることが出来たのが
上記の旧約聖書詩編第116章の中の言葉です。

そして

「わたしの神様、わたしの神様、なぜ、わたしをお見捨てになりましたか!」
(新約聖書マルコ福音書15章34節 塚本虎二訳)

余りにも欠け多く、神と隣人とに対し罪を犯し続ける私の為にも
主イエス・キリストは十字架に懸かり給うたのだ、
この御言葉を悲痛の極みで発せられたのだという思い、信仰。

思わぬ形で命を落とすこと、奪われることはあるかもしれません。
しかし、生き続けねばならない、生き続けることは出来る、という信仰が
私には与えられています。感謝であります。

矢内原忠雄の言葉(奇しくもこの大阪の中之島公会堂で語られたものです)。

「キリスト教もしくはキリスト教会が、虐げられた者、
弱き者の解放ということを言いますときに、それはいわゆる社会運動と
どこに差異があるかと言えば、キリスト教で言う社会解放の主眼は、
組織せられておらない者、組織する力もない者、社会の下層にある者、
屑の屑、そういう人間を救うこと、これがキリスト教でいう社会的救済であります。
そこにこそキリスト教の信仰による救いの特色があるのです。
資本家の運動によっても救済せられないし無産階級の運動によっても
救済せられないところの、社会の笊の目から洩れ出たような、そういう弱い者、
乏しい者、力のない者、政治の最大公約数からいえばそんなものは
死んでしまってもよいような者、体の動けない者・・・それから頭の悪い者だとか、
精神病者であるとか、そのほか貧しい者であるとか、寡婦であるとか、
孤児であるとか、組織から洩れた者、
そのいちばん洩れたいちばん端の端、
いちばん屑の屑、いちばん末梢的な者をひとりも見捨てないで、
これを温い手をもって支えるのであります。これがキリストの救いです。

(キリスト教会と共産党)

信仰に生きた先人に感謝です。
全てを導いてくださる主なる神に感謝です。

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