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信教の自由ほかについて

私にとって今日月曜日は休日です。

この世でキリスト教の信仰を抱くというのは、自らのことですが「大変なこと」だと
しみじみ思います。つらいこともありますし馬鹿にされることも嘲笑されることもあります。
自分自身の中にも信仰から離れさせようとする雑多な欲があります。
それらがあっても信仰を保っていけるよう祈るばかりです。

この日本では信教の自由が認められています。
救世軍の山室軍平中将は、明治憲法で信教の自由が基督者にも認められたことを
『キング』別冊の「明治大帝」で明治の陛下に感謝していますが、
それは偽らざる正直な感謝の思いだったでしょう。
但し、その信教の自由は、国家神道の下では数多の制約と限界のあったものでした。

その国家神道が軍国主義そのものとなってしまった時、国民の信教の自由は
天皇を「現御神」と仰ぐ「自由」でしかなくなりました。
文部省教学局発行の『臣民の道』などにそれは明らかです。
すべての上に「現御神」があっての「信教の自由」。
その国家神道の忌むべき時代を経て、今は国民個々の侵すべからざる権利となりました。

国民固有の権利が明確に認められるようになったのは紛れもなく良いことです。
しかし、それに安住することは無いか、自問自答する必要があります。

海を隔てた北朝鮮では官許の教会がある一方、
多くの基督者が迫害され強制収容所に送られていると聞きます。
信仰を守り続ける、たたえられるべき信徒たちがいます。

その北朝鮮の人権抑圧を訴える組織が、ある新興宗教に属する団体だったり
その教祖が亡き金日成と握手していたり、わけのわからないことが
この世には多すぎます。

そんな中で、まことに欠け多く乏しい私ですが、
「他人に知られたら恥じ入るしかない僅かなこと」でもいいので
苦しみを受けている人々の為に
何かできることを模索していきたい。あらためて思います。

日々の勤労にいそしむこと。自分の安逸と享楽だけを望む思いを信仰で克服すること。
乏しい生活の糧を他者にも分かつこと。

平凡なことしかできませんが、その平凡なことでも
私にとっては信仰に拠らずしては何一つ為し得ません。

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