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信仰で「人生順調」になるのか

暑くなりました。皆さんいかがお過ごしかと思います。
仕事場への行き帰りの電車、バスの中の人々の表情が明らかに
疲れた感じになっていますね。私もその一人でしょう。

私が毎週批判的に読んでいるある漫画で、登場人物の少女が
占いに凝っている描写がありました。
何度かここをご覧の方には「享安山人はキリスト教徒らしいが占いとかやるのだろうか」
と思われる方もいるかもしれません。

結論から申しますが、私は占いはやりません。
欧州、北米、中南米、アフリカその他のキリスト教社会でも占いは盛んです。
故レーガン大統領夫妻が占星術を信奉していたのは有名な話です。
ナチスドイツの宣伝相ゲッペルスも占星術の信者でした。
米国のルーズベルト大統領が病死したのを知り、ホロスコープの占いが当たった、
これで第3帝国は救われると虚しく愚かな喜びにしばし浸ったとか。

トルストイ『戦争と平和』でも、「聖書占い」というものがありました。
聖書を敢えて下に落とす、そして開いた頁に何が書いてあるかで
事の今後を占う、と。黒魔術ならぬ白魔術というものもあるとか。
キリスト教社会での占いの歴史を書くだけで百科事典並みの厚さになるでしょう。

しかし、聖書にあるように実は占いはキリスト教では禁じられています。
そして、「すべてを神に頼り、神の御旨に人生を委ねる」のがキリスト者の生き方だと
私は考えています。もっとも、亡き愛すべきカトリック作家・遠藤周作はいたずら心から
占い師に自分を見てもらい、その結果を聞くのが楽しみだったそうですが。

今日は「占い、否、キリスト教を信じたら人生順調になるのか」ということを考えてみます。
これも結論から言うと、「否!」です。それも特大の「否!」。

イエス・キリストからしてその一生は人々への愛そのものでしたが
十字架上の悲惨極まりない死を遂げられました。
その一番弟子のペテロは
後世「初代ローマ教皇」の尊称を奉られますが、ローマで殉教の死を遂げました。
カトリック教会の伝承では十二弟子はすべて殉教の死を遂げました。
イエスを裏切ったイスカリオテのユダは罪悪感から自殺の道を選びました。

初代教会からしてそうでした。その後2000年間で
一生を愛に生き、敬虔そのものであった人が悲惨な死を遂げた、
あるいは艱難辛苦の生涯を終えた、というのは枚挙に遑ありません。
コルベ神父やボンヘッファー牧師といった人々の最期がそのことを教えてくれます。
信仰をあくまで純粋に貫いた朝鮮の朱基徹牧師の殉教もそうでした。
(朱牧師を殉教に追い遣った罪責を持つ日本人の富田満牧師は
わが日本基督教会の先人の一人です)。

わが日本の内村鑑三はどうだったでしょうか。
その人生、まさに艱難辛苦の連続でした。しかも最晩年には後事を託そうとしていた
高弟・塚本虎二との決別を余儀なくされます。肉体的には心臓肥大で苦しみに苦しみました。
(塚本は内村の死後に、自分が「先生」から離れてしまったことを「男泣きに泣いて」悔いました)。

矢内原忠雄は、東京大学総長という名誉ある地位に至り順風満帆であったかのように見える人生ですが
そこに至るまでは師・内村と同じく苦難の連続でした。

そして最晩年は病苦との戦いでした。排尿障害その他激痛との何ヶ月もの戦いでした。
矢内原の絶筆というべき一文「サタン」にこうあります。

「確かにサタンは実在して盛んに活動している。・・・
その手段はいろいろであって、ある時は、もう堪えがたいと思うほどの苦痛におとしいれて、
これでも神を詛わぬかと言う。ある場合は、長い病気の間に思わぬ余病を引き起こして、
これでも神は愛であるかと疑わさせる。
・・・サタンに立ち向かうには信仰の武具をもってすべきであるが、
信仰の武具といっても、要するに自分が根っからの罪人であって
イエス・キリストによらねば救われないものであるということを常に知っていることである。」

病苦からの癒しを説く教派もキリスト教にはあります。しかし病苦から一時癒されても
最後には人間はひとしく死ぬのです。ましてや人生の成功を約束するものではありません。
寧ろこの日本ではキリスト教を信じて社会から冷笑された人のほうがはるかに多いでしょう。

最期の近づいた時の矢内原の言葉です。
「ことしのクリスマスは病床に釘づけされたままで迎える。入院以来すでに
四ヶ月、足腰立たぬ状態で、未だ何ら好転の兆候が現れない。
・・・自分でペンを持つこともできない。
・・・しかしこのクリスマスほど感謝に満ちて迎えることもない。
第一は、神はわが罪を明らかに示し、これを赦し、新しいものとして
生まれかわらしめ給うたからである。・・・第二は、こうして新しく生まれかわらせた私に、
なお残存する多くの罪や不純にかかわらず、神は私相応の、否、私の分にあまる
福音の使命をゆだね給うて、この長い年月働かせてくださったことである。」

この感謝の喜びがキリスト者に与えられるものです。

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