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韓国・中央日報のくだんの記事に思うこと

皆さんもご承知かと思いますが、すでに触れたように今週月曜日、
韓国最大紙の中央日報でわが広島、長崎への原爆投下は「神の懲罰」だとの暴言記事がありました。

中央日報は一面のコラム、論説委員が書いたものを
「個人的見解だ」と「釈明」していますが、少しでも新聞に知識のある人であれば
およそ釈明になっていないとお分かりかと思います。

はじめは逆上しましたし、今でも嫌な思いをしています。

しかし、おそらく誰よりもつらい、戦後生まれのわたしの憤りなど
およそ取るに足らないほどの怒りと憤りと哀しみを抱いているのは被爆者でありましょう。
わが日本人、そして韓国・朝鮮人の被爆者でありましょう。

731部隊には何のかかわりもない何十万人もの日本人が虐殺されました。

そして何万人もの、日本の官憲によって強制的に徴用された、
あるいは当時広島、長崎に住んでいた朝鮮人が虐殺されました。
旧大韓帝国皇族、「朝鮮王公族」のイ・ウ公殿下も被爆して薨去されました。

この論説委員は韓国でも有数の識者だと聞きますが、同胞の被爆者がいたことすら知らない、
或いは知っていてその存在を無視してかかる「識者」であります。

この論説委員への憤りを広く韓国人への憤りに一般化して憎悪に身をゆだね、差別に至るのは
いともたやすいことです。
だからこそその道を選ぶことは許されないのです。罪悪にほかなりません。

この記者が気の毒だと思います。関東軍の罪悪を、旧帝国陸軍の罪悪を憎むのは良い。
わが国が犯したむごたらしい罪過はあります。
その上、それがまともに罰せられることもありませんでした。
人体実験の「材料」にされた方々とその遺族には日本国家としてはただ頭を垂れるのみでしょう。

しかし、誰を憎むべきか、関東軍、参謀本部の上層部といった
罰せられねばならない人と罰を受ける必要のない人々とを峻別する理性と倫理観が欲しかった。
その国家が非道を為したからといって、国民が無差別に虐殺されても甘んじて受けよ、
というのは全体主義をひっくり返したものに過ぎません。

『暗黒日記』(岩波文庫)の著者清沢洌は、空襲の際、惨禍を蒙った当の一般国民が
「戦争だから仕方がない」と諦めているのを見て、怒りました。
日本の軍国主義を憎んで已まなかった清沢は、米軍の無差別空襲に怒ったのです。
日本国民は怒るべきだ、と。それが理性ある人間の姿勢でしょう。

「戦争だから仕方ない」は、わが国が犯した罪過についても
「戦争だったのだから仕方ないだろうに」という正当化と諦めに繋がります。

くだんの論説委員については、今撤回を求めても無駄でありましょう。
却って心を頑なにするばかりだと私は思います。

文脈から見ておそらくキリスト教徒であろう論説委員が
主なる神の御前に自らの文章を省みていつか悔いることを
同じくキリスト教徒の一人として祈るものです。
そして、この心無い記事にふみにじられた被爆者の方々の心が
少しでも癒えることを祈ります。

自らの罪人のかしらなることを覚えつつ。


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歴史・宗教」カテゴリの記事

コメント

キリスト教徒であるならば、「神の懲罰」という暴言にどうして怒ることができるのでしょうか。
ヘブライ語聖書にはこの類の「神の懲罰」はいくらでも出てくるではありませんか。男の子と非処女は全員殺しなさい、などという命令も神が下しています。
あなたはキリスト教そのものがどれだけ人道に反する宗教であるかを考えてみるべきでしょう。

以下は私が以前ここで述べた文章です。お答えに換えて。

「但し、旧約聖書では神が古代イスラエル人に戦争を命じているのはどう解釈すれば良いのか。これは私を今に至るまで悩ませ、苦しませている問題です。史学的に見てヨシュア記で見るような「滅ぼし尽くす」戦争が実際に古代イスラエル人によって行われたとは言えないという説明は、事実に即してみれば「戦争好き」ではない証明にはなりますが、そのような神の命令が聖書という形で伝えられていることをどう捉えればいいのでしょうか。歴史的事実ではなく、またそれらの神の言葉を伝える聖書の成立もはるか後のユダ王国時代のものであるならば、私は「滅ぼし尽くせ」との神の御言は古代イスラエル人の信仰の反映だと見るほかありません。そう考えざるを得ないのです。
私がもし、遥か古代、ヘブライ人のカナン進入の時代に生きていれば、アブラハムがソドムとゴモラの人々の為に必死で神に執り成したようにしたいと今も思っております。それでも神が「滅ぼし尽くせ」と命ぜられるなら、神は私たちの心の奥底の奥底まで見抜かれる御方だからこそ「できません、私にはできません」と叫びます。そう叫ばざるを得ないのです。
実際には起こってはいなかったと思われる出来事が、史実であり且つ神の御命令によるものであると旧約聖書に記されているという事実は、聖書をそのまま文字のまま起こった出来事としてその全てを受容するのではなく、旧新約聖書全体を通して何が私たちに呼びかけられているかを考えて読まねばならないのだと教えてくれるように思えます。それは聖書の全ての記述を神の御言そのままという立場には或いは反するかもしれません。しかし、聖書が示しているのが十字架上の主イエス・キリストであり、神の人類に対する愛であると見るならば、聖書を上記のように読みつつキリスト者であり続けることは可能であると信じます。
 神が人となり給うて人類にあるべき道を示して下さったのが主イエス・キリストであるならば、古代イスラエルの信仰を踏まえつつも、私たちが仰ぐべきは主イエス・キリストであることは確かでありましょう。」

逆に問い返します。あなたは「(被爆者の子どもたちは)ひよこのように縮んで死んでいった」と被爆者を嘲った、かの記事をどう思われていますか。

>逆に問い返します。あなたは「(被爆者の子どもたちは)ひよこのように縮んで死んでいった」と被爆者を嘲った、かの記事をどう思われていますか。

非戦闘員の大量虐殺を肯定するかのような記事は決して許されるものではありません。
そしてすべてのキリスト教徒(およびユダヤ教徒・イスラーム教徒)が、このような宗教を信仰することが正しいのかを問い直すべきです。

>それでも神が「滅ぼし尽くせ」と命ぜられるなら、神は私たちの心の奥底の奥底まで見抜かれる御方だからこそ「できません、私にはできません」と叫びます。そう叫ばざるを得ないのです。

それならあなたはキリスト教徒ではありませんね。神の命令に従わないのですから。
いい加減、「信仰」などという馬鹿なものを捨ててしまってはどうですか?私も信仰を捨てて(キリスト教ではありませんが)、背中から重荷が下りて自由になったような感覚を味わいましたよ。

人がこよなく大事に、大切にしている存在を「棄てよ」ということがどれだけ軽々しい事なのかあなたには全くわからないようですね。時代の制約の中書かれた聖書の御言に葛藤するのが私の偽りなき心情です。しかし、それでも主なる神への信仰を棄てる気はありません。

あなたに「マルクス主義などという破綻したもの」を棄てなさい、と私は軽々しくは言いません。しかし自分の「信仰」を捨てて「自由になったような感覚」を味わったというあなたならば、マルクス主義も時代の流れ次第で平然と捨て去ることでしょう。思想信条を変えることに痛みを覚えないのですから。あなたの「信仰」が何の宗教だったかは知りませんが。

あなたが以前に言った言葉「楽観視」に、私は少なくとも自称マルクス主義者のあなたが日本の現実をかくも軽くみていることに深く失望しました。返事をする気力もなかったです。

主が私を導いてくださる限り、信仰を棄てることはありません。

あなたの口吻は、以前登場した「自称・在日朝鮮人ボクサー」、そして「その友人」と酷似していますが、違いますか?皆結局同一人物ではと私は疑っております。

もしそうであれば自称をいくつも使い分ける人間と話をするだけの精神的、時間的余裕など私にはありません。

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