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橋下市長の発言に キリスト者のはしくれとして 他者を審く言葉は私をも審くことを覚えつつ

今日の朝刊に、大阪市の橋下市長の発言が載っておりました。
やはりわが大阪の中心の市長の発言、日本国第2の都市の首長の発言である以上
沈黙するのもどうかと考えました。

内容はもう皆さん周知のことだと思います。

かつて、私も従軍慰安婦を「必要悪」だと思っておりました。
むろん強制はあってはならないが、「慰安婦」が自発的に応募した娼婦であれば
戦地住民への強姦の蔓延をふせぐためにはやむを得なかったことではないか、と。

およそ基督者としてあってはならない発想でした。
自分にある性欲だけではない肉の欲望、すなわち自己義認、自国、自民族の正当化と
死に物狂いで格闘せずに漠然、漫然と
「わたしたちキリスト教徒に適用される倫理と世俗一般の倫理とは違うのだから」
という思い込んだ上での欺瞞でありました。
矢内原忠雄先生の言葉を借りれば「メフィストフェレス的欺瞞」であります。
橋下市長は言います。今の「風俗業」に従事する女性は昔の身売りとは違い自発的にやっている、
そして内容も売春そのものではない、在日米軍がそれを利用して何が悪いのか、と。

キリスト者なら、たとえ女性がその生活に何の不自由なく
自発的に遊興費欲しさで風俗業に従事していたとしても、それは私たちには受け容れがたい、
性をあのような形で売り物にすることは自らを貶めること最たるものだ、と断言すべきであります。

そして、本当に彼女たちは「自発的」に娼婦まがいのことをしているのか、と
「平成日本の実態」を徹底的に問わねばなりません。
風俗業に従事する人間を差別することだから、風俗業を批判してはならないと
橋下市長は言いますが、ではその生業に従事している人間で心底誇りを持って
私は自分の性を売り物にしていますと公言できる人間はどれだけいるのでしょうか。

昨日、生涯を懸けて廃娼に取り組んだ山室軍平先生(救世軍中将)の説教集を読んでおりました。
性を売り買いすることが、女性をずたずたに傷付けるだけでなく
買う側の男性をもどれだけ堕落させるかを懇々と説いています。
そして山室中将は、当時の娼婦たちがそれこそ生きるために
身を売らざるを得なかったことを知っていました。
山室中将は買う側の男性には厳しくも厳しい。そしてそういう女性たちには優しい。
ともに人々への愛に基づいてです。
「患者が痛がるから」と傷を浅く適当に治療するだけの医者は名医に非ず。
これを私は矢内原先生から学びました。

聖書には、娼婦になった女性、姦通罪を犯した女性に主イエス・キリストが
どれだけ優しく、親身になって寄り添ったかが記されています。
しかし、そこに現代の私たちが見落としがちな点があります。
彼女たちは、或いはやむなく娼婦になったであろう人々であり、
それでもなお自分の行いを悔いているのです。
悔い改めなく自己正当化だけでは、主からの深い赦しがあっても
その大いなる赦しを赦しと感じられない、前へ進めないのです。
平成の始め、社会学者の宮台真司は「自己決定権」という言葉で
少女売春を正当化しました。私はいまでもそれを受け容れがたい思いでいます。

橋下市長も、市長を擁護した石原代表も、遊ぶ金ほしさで売春するとおぼしき
現代の一部の少女たちも、「自発的に」風俗業で働く女性たちも
みな主にあっては慈愛の対象です。しかしそれは「傷を浅く癒す」ことを意味しません。

従軍慰安婦のことに話を戻しますが、太平洋戦争末期、フィリピンの首都マニラで
在比日本軍の一部(といっても数万人)が徹底的に米軍に抵抗し玉砕しました。

日米ともに無差別の市街戦を行うことを躊躇いませんでした。
マニラの街は文字通り廃墟同然となりました。
戦禍に巻き込まれ、日本軍の自暴自棄の抵抗と米軍の無差別の攻撃によって
命を奪われたマニラ市民は10万人とも言われています。

玉砕の名で死を強要された日本兵ですが、ごく一部とはいえ
自暴自棄の果てにフィリピン人少女を襲った人々もいました。
被害者の少女の証言によると、日本兵たちは「どうせ死ぬんだ」と叫んでいたそうです。
同じ日本人としてはその兵士たちをただただ哀れに思います。暗然とするばかりです。

しかし、フィリピン人にとっては、一方的に侵攻して来て
勝手にマニラを「死地」と定めてフィリピン人民衆を巻き込んだ挙句
少女に襲い掛かった集団でしかないのです。
そのような視点も私たちは持たねばならないはずです。

「慰安婦・強姦抑止論」を百歩譲って認めたとしても
そんな極限状況にあって「慰安婦」が何ほどの「抑止」になるのでしょうか。

従軍慰安婦のことでは、よくその強制性、自発性が問題になります。
嘗ての私もそうでした。

たとえば、数字の上では朝鮮人は志願兵制度の導入と共に
「続々志願」したことになっています。朝鮮総督府の統計ではそうなります。

同時に、同時代の矢内原忠雄は勇を鼓してその内実を伝えてくれていました。

「日本の植民地に対する同化政策は、事変以後頗る強化されているが、
朝鮮で次のやうな事が行はれてゐるのを、諸君も知つて置くがよい。

1、神社参拝の励行。基督教会に対しても、教会として神社参拝をすることを要望する。
・・・・・・
4、朝鮮語を成るべく使用しないこと。
5、志願兵の徴募に応ずること。

以上の勧誘や奨励は概ね警察官の手によつて行はれてゐる。」
(1940年(昭和15年)3月 『嘉信』第3巻第3号)

「暗黙の不作為」がこの問題を解く鍵だと考えています。
確かに強要を、不法な業者を戒める通達はありました。
しかし、その通達にどれだけの実効性があったのでしょうか。
「建前」と「本音」が絶望的なまでに乖離していた日本陸海軍、そして我国でありました。
怜悧な軍官僚たちは、「娼妓の実態」を百も承知していたでしょう。

当時の遊郭の女性について、同時代の日本人がどれだけ
「娼妓たちは自分から進んであそこへ行ったんだ」と思っていたのか、と問えば
おのずと答えは見出されると思います。

基督者の一人として、「主よ、我らを憐れみ給え。」と祈るほかありません。
そして、橋下市長と同じ発想に立っていた私・享安山人の罪を赦し給うように、と。

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歴史・宗教」カテゴリの記事

コメント

私もこの件に関しては橋下さんと同じ意見なのですが、これは平成の逆踏み絵ですね。
認めないという立場は簡単で批判を受けることはない。認めるとなると、あらゆる方面から非難を浴びる。
睡眠欲
食欲
性欲
三大欲求を不問には出来ないですよね。

宗教的にはNGと言っていれば問題ないのでしょうが、私も不問にするよりかは橋下さん支持になります。あなた様の判断を、批判するつもりは毛頭ないです。

橋下さん、私の意見が世間的には駄目だというのは重々承知です。

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