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昭和20年3月10日・東京大空襲と平成23年3月11日・東日本大震災

「大正12年の関東大震災の後にも、馬で市内を巡ったが、
今回の方がはるかに無惨だ。あの頃は焼け跡といっても、
大きな建物が少なかったせいだろうが、それほどむごたらしく感じなかったが、
今度はビルの焼け跡などが多くて一段と胸が痛む。
侍従長、これで東京も焦土になったね。」

昭和20年3月9日深夜から10日未明にかけて、東京のいわゆる下町を中心目標として
米軍は低空から一般民間人の密集して住む地域に完全に意図的な無差別大空襲を行いました。

死者・行方不明者約10万人。そのむごたらしいありさまについては
戦後生まれの私が史料を引用するより、歴史研究家の半藤一利さんといった
実際に大惨禍の中でかろうじて命をつなぐことのできた方々の体験談を
読んでいただくほうがいいでしょう。また、命を喪った人々の遺体写真も
図書館などで目にすることもできます。

3月18日、昭和天皇は藤田尚徳侍従長らを従え、被災地へ行幸されます。

「この日の御巡幸を知らぬ都民は、ふと陛下のお姿をみて、
驚きの表情でお迎えしていた。陸軍の軍装を召された陛下は、
都民のモンペ姿、防空頭巾姿にいちいち会釈されながら・・・一巡なさった。
車中で私に悲痛なお言葉をおもらしになったのは、湯島を通り過ぎる頃であったろうか。」
(藤田尚徳『侍従長の回想』(中公文庫)

そのお言葉が、冒頭に引用したものです。

亡き堀田善衛が、被災地を車から降りてご覧になる陛下を偶然目撃しています。
『方丈記私記』にその際のすさまじい胸中の絶叫が綴られています。
堀田は小豆色の御召車から降りてくる陛下や供奉の高官一同を、

ひとり残らず海の底へ叩き込みたくなった、と。


ナチスドイツの支援のもとでのスペイン内戦時のゲルニカ空襲が
無差別空襲の端緒として知られていますが
ご承知のように、それを大々的に展開するようになったのは
我が帝国海軍による中国の都市への無差別空襲でした。
以前紹介した『ミッドウェー海戦』では、日中戦争のさなか、
無差別空襲の必要性を力説する大西瀧治朗と、それに反対する山口多聞が
酒席でつかみあいにまでなるまで激論を交わした、と記されています。
実際に行われたのは中国の大都市への無差別空襲でした。
海軍良識派の一人として知られる井上成美は中華民国の臨時首都・重慶空襲について
「日本海海戦以来の大戦果」と発表しました。
井上の聡明そのものの知性を以てすれば自軍の作戦の結果は、
重慶の街で何が起きたかは十二分に理解していたことでしょう。

東京大空襲のある遺体写真を見ました。
文字通り全身が焼け焦げて真っ黒になった母と幼児の遺体。
母の背中が、少し白いのです。わが子を背負っていて避難するも、
ついに親子ともに命を落とした、否、虐殺されました。

それと同じことが重慶その他でも我国によって起きています。
重慶空襲の惨禍を伝える有名な写真があります。
階段に折り重なっている民衆の遺体写真です。
ある研究者が「これは爆撃による死ではない。防空壕に殺到した人々が圧死したのだ。」
と述べて、帝国海軍の爆撃の正当性を主張していました。

それに賛同する人もいるでしょうが、私は思うのです。
空襲で中国の民衆を死に追い遣ったことには何の変わりもないじゃないか、と。

東京下町で黒焦げにされた母子は「因果応報」で死んだのか。
否、断じて否です。彼女たち自身が何をしたのでしょうか。

しかしです。国家としての、軍としての罪責は厳然としてあります。
何が起きるか十二分に承知で無差別空襲の道を開いた日本軍、
そして米軍のカーチス・ルメイなどそれぞれ要路の人々には
その罪責はあるのです。その人々は既にこの世の人間ではありません。
キリスト者の一人として、せめてあの世では過去を悔いていることを願います。

史書に何が起きたかを明記して、二度と同じことを
どの国も民族も起こしてはならないと胸に刻み付けるのは十二分にできることです。
戦争を起こしてはならないことを、徹底して決意する。
それは地震のように突如襲い掛かる天災なのではありません。
私を含めた各国国民ひとり一人が憎悪の応酬に心を委ね、
自国を正当化する誘惑から己を守ってもがきつつ
平和のために努力していくほかないと自覚する必要があるのだと考えます。

大空襲の被災地で堀田善衛に沈黙の呪詛を浴びせられた昭和の陛下。
その呪詛は、万乗の君であられる以上、お引き受けになるほかないものです。
堀田の呪詛は、誤解を招くのを承知で言いますが、正しいと私は思います。
数多の人々の尽くしがたい悲しみと怒りを一身にお引き受けになるべきでありました。

昭和63年、最後の記者会見の折のお言葉。

「何と言っても、大戦のことが一番厭な思い出であります。
戦後国民が相協力して平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。
どうか今後共そのことを国民が良く忘れずに平和を守ってくれることを期待しています。」

この時のことを新聞各紙が伝えてくれています。

陛下はこの時涙を流された、と。

今、私は思います。陛下は確かに民衆の悲しみと怒りをお引き受けになったのだと。

今日、東日本大震災から2年目を迎えました。
新聞を読むと、震災で家を喪った人々は結局「自己責任」で自宅再建を余儀なくされるようです。
原発の状況は何も変わっていません。
「ただちに人体に影響は無い」を濫発した民主政権、そして原発再稼動を国策とする自民政権。
それを選んだのは私たち、この私にほかなりません。
私は民主党にも自民党にも投票していませんが、それで
「私は選んで無い」になるのか。責任なしとは到底いえないでしょう。

せめて出来ることを、目の前にあることだけでも何とかしたい、
それを思います。

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