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あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である

新約聖書ルカ福音書9章48節

「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(新共同訳聖書)

今朝の教会の日曜学校礼拝で読まれた聖書の一節です。
おもわずはっとなったのですよね。

間違いなく何度か目を通しているはずの箇所なのですが
初読の感がありました。

イエスの弟子たちの間で「だれがいちばんえらいか」という順位争いが起きた時、
主イエス・キリストは一人の子供の手を取って、御自分のそばに立たせて
「最も小さい者こそ、最も偉い者である。」と。

「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」と。

かのマザー・テレサとその修道会は数多の病苦にあえぐ貧窮者を
その宗教の別無くひとりひとりがキリストであるかのように介護したとのことですが
この子供とは、この世において力無き者ひとりひとりのことでありましょう。

明日は、大阪府内のある教会で、日曜学校教師の学習会がもたれます。
福音書の一節を用いて小説教を作成する学習です。

願わくは有意義な一日とならんことを。

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歴史・宗教」カテゴリの記事

コメント

貴殿は熱心なキリスト教徒のようですね。
そこでお聞きしたいのですが、これまでキリスト教徒によって虐殺された人間の数はどれくらいになると思われますか?
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(岩波文庫)はお読みになりましたか?
タスマニア原住民は絶滅させられましたね。
あなたは、これらの行為も含めてキリスト教を擁護されますか?

過去に私と信仰を同じくする人々が行った残虐行為は明確に否定されなければなりません。二度とあってはならないことです。

虐殺を目にした先住民がキリスト教を、キリスト教徒を呪詛したとしても、それはやむを得ないことです。

しかし、キリスト者が己の欲望のために行ったことと、キリスト教そのものとは区別されねばなりません。主イエス・キリストは敵を、すべての人を愛しなさい、と説き給うた御方です。イエス・キリストが体現されたものを真理と信じる私です。

佐倉哲さん(米国で神学を専攻した後、キリスト教を棄教された方)の論考をお読みください。
http://www.j-world.com/usr/sakura/other_religions/divine_murder.html
殺せ!と神が命じるとき

>キリスト教史における頻繁な宗教殺人や宗教戦争は、しばしば、「本来のキリスト教の教えに背いて行われた」などと、言い訳がなされますが、キリスト教の聖典である聖書の神自身が殺人や戦争を命令するのですから、それはおかしいと言うべきでしょう。キリスト教史における頻繁な宗教殺人や宗教戦争は、聖書の教えに背くどころか、むしろ聖書の教えに忠実であったがゆえになされたと考えられるからです。

こんばんは。キリスト教徒ですらそのままの受容に苦しむ旧約聖書の箇所をいくら挙げても、主イエス・キリストの誡命は厳然としてあります。

長い長い歴史の中で相異なる思想を積み重ねてきたのがキリスト教であり、他の宗教もまた然りです。終始一貫、なんら矛盾もなく懐疑の念も生じさせない宗教、否、思想などありえません。あるとすれば、それは歴史の積み重ねのない極めて底の浅いものでしょうね。

また、人が棄教しても神は人を棄て給わないと信じております。

私を唯物論者にしようとしても時間の浪費でしょうし、また宗教者を棄教させようという虚しい取り組みに私もまた時間を費やそうとは思わないのです。

内村鑑三は「不敬事件」の時、国家主義者からは不敬漢だ、乱臣賊子だと罵倒され、同じキリスト者からは明治天皇の宸署に「ちょっとお辞儀」したことを責められ、心身ともにずたずたになりましたが、インターネット上のこととはいえ最近の享安堂での幾つかのやりとりでは似た思いを抱いております。

わたしは、新約聖書に描かれているキリストのモデルとなった人物は、キリスト教の実質的創立者であるパウロの430年前の人物であると考えています。

ガラテヤの信徒への手紙
第3章
16節
ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。
17節
わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。


キリストはアブラハムの子であり、パウロの430年前の人物であった、と解釈できます。

『ガラテヤ書』の講解書は3種類持っていますが(内村鑑三のそれと、プロテスタント牧師の著作2種類です)、精読できておりませんので、そういう考えもあるのだろう、としか今はお話できません。宗教改革者ルターの『ガラテヤ書講解』は名高いですが、これも読めておりません。聖書は調べれば調べるほど大海にのみこまれる感があります。幸徳秋水『基督抹殺論』も未読です。

幸徳秋水といえば、私は「法被を着た人間(要するに肉体労働者)は日本基督教会には要らない」と言い放ったという植村正久がどうにも好きになれませんが、その植村が大逆犯として幸徳とともに処刑された大石誠之助の葬儀を進んで司ったことは畏敬に値すると思っています。その植村の流れの日本キリスト教会に私が籍を置いているというのもまた不思議なものです。

棄教とは何か。

佐倉哲さんが書かれています。
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/neo/n148.html
わたし自身の(キリスト教)棄教の経験から言っても「信仰を棄ててしまえばあっけないもの」です。これは、棄教とは無理を止めることだからだと思います。無理な姿勢を止めて自然体に戻るからだと思います。本当は何も知らないくせに、まるで何か知っているかのごとく振る舞う無理(信仰)をやめて、知らないことは「知らない」と、自らの無知を認めること。これが棄教の本質だと思います。

ご紹介の佐倉氏はどうも「聖書の無誤謬性の偽り」に気付いたことで棄教したそうですが、一応大学でごく初歩的なものですが聖書学も学んだ私にすれば「太古からのイスラエル人の思想、歴史の積み重ねの書である聖書に史実と合致しない箇所があるのは当たり前」なんですよね。マルコ福音書の旧約聖書からの引用でも、取り違えがあります。しかし、その中で説かれている主なる神の愛を信じることを重んじます。

当然、佐倉氏も聖書学を私以上に遥かに本格的に学んだことでしょうが、寧ろそれまで「聖書の記述は無誤謬」だと思っていた、否、思わされた信仰のあり方、つまりは佐倉氏の属していた教会の説き明かしに問題があったのでしょう。

この佐倉氏は「和の思想」をことのほか尊んでおられるようで、それは良いのですが、日本書紀の該当箇所は潤色だらけという学説もある中、「和の思想」をどう捉えるのか、とも思います。私は「聖徳太子はいなかった」には否定的なのですが。

私に棄教を勧めるのは、あなたが傾倒している学者への尊敬、信奉を棄てなさい、というのと同じようなものです。

ご紹介のメーサロシュ教授の著書は、今度インターネット古書店で探してみます。「メサローシュ」「ミサローシュ」「ミザローシュ」とばかり思っておりましたので、「いくら検索してもまったく『ヒット』しないじゃないか」と思い込んでしまいました。

キリスト教徒の私に棄教を勧めるよりも、あなたの思想上の立場からすれば、平和が損なわれつつある今の状況や、「在特会」の跋扈に対応するほうが時間を有効に使う途かと思いますが、いかがでしょうか。

私は、今もキリスト教を信じておりますし、そこに生きる拠り所を見出しています。

人に信じる宗教を棄てよと勧めるのは虚しい営為です。あなたに「共産主義の理想を棄てよ」というのと同じことですし(共産主義者なのですよね?)。

まず、Mészáros教授の日本語表記を間違っていたことをおわびします。

Mészárosの『マルクスの疎外理論』(啓隆閣, 1972)は絶版ですが、「日本の古本屋」で1000円からあります。これは、マルクスが人間の疎外についていかに雄大な思想をもっていたかを解き明かす素晴らしい本です。日本では廣松渉とか宇野弘蔵とかのニセマルクス主義者が幅を利かせてきたので、本来のマルクスの思想がゆがめられてきました。

こんばんは。社会主義についてですが、幸徳秋水『社会主義神髄』には、日本社会での不正不義に対する正義感の発露として好印象を抱いていますが(その最期への哀悼もあります。大逆事件は明治の大汚点でした。)、戦後の各論者の著作には殆ど触れたことがありません。「ニセマルクス主義者」というのは広松渉氏が晩年に「大東亜」云々と主張したことからでしょうか。

ご紹介の著作、探してみます。ただ、私は貧窮との戦いには階級闘争という手段に拠るマルクス主義より、賀川豊彦にみられるようなキリスト教に拠る救貧、あるいは他宗教との提携からの実践が大事且つ有効だと考えております。明らかな不正不義、搾取への怒り、憤りは大事ですが、それだけでは復讐、そして「赤い貴族」に象徴される支配者の入れ替わりに終わるのみと思います。

廣松渉がニセのマルクス主義者であったというのは、単に晩年の堕落だけではありません。彼のマルクス解釈が根本から誤っているということです。マルクスは「人間の疎外」の観点から資本主義社会をとらえ、そこから資本主義を批判しました。しかし廣松やスターリン主義者は「疎外」の概念を捨て去ってしまいました。

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