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戦争のこと

先日映画『聨合艦隊司令長官山本五十六』のテレビ放送がありましたが
今図書館で借りて読み進めている森史郎『ミッドウェー海戦 1・2部』(新潮選書)
と併せて、さまざまな事が思い浮かんできました。

帝国海軍のさまざまな問題点は既に指摘され尽くしている感がありますが
当事者の痛切な反省、後悔とは別に、
その人々が鬼籍に入らない限り検討できない問題点もある、
つまり後世の私たちが実際の戦場を知らない反面、
冷徹に人々の判断の過誤、自信過剰などを指摘することが出来るのだろうとも
思います。
この『ミッドウェー海戦』で痛烈にその判断の過誤が指摘されている南雲忠一中将は
サイパン島で「太平洋の防波堤たらん」と自決して武人としての生涯を全うしました。
玉砕はこの上なくむごいものですが、あの状況下、
帝国海軍の将官としてはほかに道は無かったでしょう。

戦争の悲惨さを訴えるだけでは戦争の防止はできません。
ドイツ帝国陸軍伍長ヒトラーは、毒ガス攻撃で一時失明したほどで
十分戦争の悲惨さはわきまえていたはずですし、
現に平和の大切さを訴える人に「私こそ何よりそれを知っている」と言い返していたそうですが
総統ヒトラーの好戦性にはなんら歯止めがかかりませんでした。

今、ネットには「戦争の悲惨さなんかもう知ってる。それより国防を」と言わんばかりの
勇ましい若い世代の主張が溢れ返っています。
確かに学校教育で山ほど戦争の悲惨さについて知識を詰め込まれる人もいます。
しかし、知識と実際は違う。

私が「ミッドウェー海戦」という戦いがあったと知識を持ったのは小学生の時でしたが、
戦争で喪われたひとりひとりの人生の重みを少しでも感じられるようになるには
だいぶ時間を要したと思います。

日米両軍将兵の勇敢さ、真摯さを思うと共に、そのような人々を
むごたらしい最期に至らしめることの重さを考える時
やはり私は平和主義の道を棄てることは出来ないと決意を新たにするものです。
犠牲の尊さは戦争そのものの肯定にはなり得ません。

「今迫っている中国、北朝鮮からの危機をどうするんだ」という声には
「自衛隊の存在によって、日本侵攻の際の危険性を知らしめて
事前に日本侵攻を諦めさせる他にない」
と言うほかありません。
我国が核武装などしても韓国や北朝鮮がそれを口実に公然と核武装するだけのことです。
また、単独で自国を防衛できる日本国でもありません。

尖閣諸島問題などで「もう戦争だ」という声もインターネットではうんざりするほど見ますが、
よもや我国の為政者はそれに媚びるほど愚かではないと信じています。
為政者は、まずそのような現状への不満に溢れている若者が
正業に就けるよう道を指し示すことが必要です。
恒産ありて恒心あり、は真実すべてではありませんが、真実の一端ですから。


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歴史・宗教」カテゴリの記事

コメント

平和を望むならば、平和主義などとは口が裂けても言わないことです。

ヒットラーの挑戦を招いたのは、英仏の平和主義でした。亨安山人さんはミュンヘン会談までの歴史をご存知ないのですか?
欧州大戦が始まってからも、フランスは国境で兵を動かさず、ポーランドがナチス・ドイツに蹂躙されるのを傍観していました。ドイツがポーランドを制して西部戦線に兵力を集中してからでは、もはや手遅れなのは明らかであるにもかかわらずです。

ヒットラーもヒムラーも個人的には暴力的な人間ではないですよ。ただ、第一次大戦後の(戦争さえ避けられれば)という西欧諸国の対応が彼らの野望の拡大には格好のフィールドを与えたことは否めません。ヒットラーの誤算を言えば、ポーランドに踏み込んでも、英仏が宣戦布告してくるとは彼は想像さえしてなかったのです。そこまで 英仏を舐めきっていました。

第二次大戦はこの後に続く独ソ戦こそがメインステージで、そして英国とソ連を支援すべく米国が参戦を決意している限り、日米戦も避けがたかったでありましょう。ミッドウェーやガダルカナルなど、枝葉と言っては何ですが、スターリングラードの途轍もない消耗に較べれば、さしたる戦いではありません。

独ソ戦の推移については同じ枢軸国のフィンランドやフランコのスペインはかなり正確な予測をしておりました。欧州の中小国ではあっても、耳の長さが日本とは決定的に違うのですね。

国際政治の現実を前にして、祈りや願望を口にしてはなりません。つけ込まれるだけです。

アルカイダのロンドン地下鉄爆破事件の直後、腕をもがれて階段を登ってきた一市民が「これでパラリンピックに出られる」と豪語しておりました。
「ルール・ブリタニカ」という英国の国民歌がありますが、すばり、英国は統治する…と言うべきか。第二次大戦の空襲で外枠を全て吹き飛ばされた家に「ノック無用!」というプレートが出ていた画像を思い出しました。

緊急事態において、不安や動揺を自ら拡大する人間は、しょせん何者かに支配されて生きる者になります。己さえ制御出来ない人間に、外の世界がコントロールできるはずがないからです。

山本提督がミッドウェーに出て行った大きな要因の一つには、ドゥリットルの爆撃からパニックになりやすい日本国民のメンタルを心配した結果と聞いています。彼は日露戦争の時に、三、四隻のウラジオ艦隊が日本近海に出没して、国民がパニックに陥った経過を記憶していたのですね。誠に運命は糾える縄のごとし。

レッドバロンさん、こんばんは。東京は雪がひどいと聞きました。

ご存知の通り、我国の国是は平和主義です。そして何より、キリスト教は常に平和を説くよう教えております。申し訳ありませんがこの点については枉げることはできません。一国の指導者が毅然とした姿勢を見せることは時に必要ですが、「平和をもたらすための毅然とした姿勢」であるべきでしょう。

ミュンヘン会談までの道は、通史レベルですが一応承知しております。時代が前後しますが、シャイラー『ベルリン日記』やモロワ『フランス敗れたり』は読みました。「チェンバレンの宥和主義がヒトラーを増長させて戦争を招いた」ということは承知しております。ダラディエがミュンヘン会談後に平和が確保されたと歓喜するフランス国民を冷笑したことも。確かに歴史の教訓であります。しかし、それは常に援用できる「教訓」だろうか、とも思うのです。「大量破壊兵器をフセインは保有している」という虚構によって数十万人のイラク国民が死に追い遣られました。その時にも「チェンバレンの宥和主義」が盛んに説かれたと記憶しております。

英国市民の勇気は讃えられるべきものですが、それに耐えられない他の市民も大勢いたことでしょう。

仄聞ですが、「豪勇」で知られた長勇中将は、沖縄戦末期、壕内で「怖いよう」と夢でうなされていたそうです。しかしそれで私は長中将を軽蔑しようとは全く思いません。ただ痛ましいと思います。非難されるべきは南京戦での人道軽視などでです。

日頃から生死について真剣に自問自答して精神を鍛錬していた帝国軍人ですら極限状態では死への恐怖、生への執着を見せるのです。先日、レイテ沖海戦で囮となった空母瑞鶴の沈没直前の写真を、大きく傾斜した飛行甲板に乗員が勢揃いして下ろされていく軍艦旗に敬礼している写真を見ました。粛然とするほかないものです。おそらく一生忘れられないでしょう。しかしその直後に、将兵は海に投げ出され海流に呑み込まれていったでありましょう。重油にまみれながら最期の瞬間の苦悶と恐怖、絶望に耐えられた人がどれだけいたでしょうか。『ミッドウェー海戦』では空母赤城が再起不能になった時、勇猛で知られた二人の将校が現実を直視できず「へらへら後ろを向いて笑っていた」との証言が載せられていました。私は、究極の他力本願教であるプロテスタント信徒であることもあって、人間がどれだけ己を制御できるかには極めて懐疑的です。コルベ神父やボンフェッファー牧師のような勇気のない己を思います。


このレビューは尖閣をめぐる問題から始まったと思いますが、それが何故、レイテやミッドウェー戦の話になってしまうのか?

イラク戦争など、全く形態が違いますし、私にはどちらが正しいかなど、ほとんど判りません。但し、イラク開戦を巡る下院におけるブレアの演説「最も恐るべきは無為に過ごすことである」…には、アングロサクソンの統治者の覚悟を聞く思いまがしました。

また、国連安保理において、開戦に前のめりに傾斜する米英に対して、「古きヨーロッパの知恵を聞け!」と反論したフランスのドヴィルバン外相も。

アメリカの政策に批判的な仏独に対して、ブッシュ政権が「古いヨーロッパ」概念で批判したのを逆手にとっての逆襲でした。安保理史上、初めて万雷の拍手が起こりました。ご承知の通り、人の生命を扱う安保理では演説の後には拍手をしない不文律があります。

私はどちらにも感動し、ヨーロッパの政治には今でも人間の声が聞けることを確認しました。子供の頃から、カエサルやキケロを原文で読まされている人達の、自分とは意見が異なる他者を議場において説得する言語能力でした。これがヘレニズムですね。どちらの演説も歴史に残るでしょう。

イラク国民の犠牲者数十万人とか、どこから出てきた数字か判りませんが、嫌な言葉ですがキル・レシオという数値があります。例えば、開戦前にイラク軍は2千数百両の戦車を保有していましたが、主として航空攻撃で全滅しました。対して米軍の損害は4両、全て自損事故です。この場合、キルレシオは600対1という冷厳な数字になります。

アメリカに逆らうとは、そういう事なのです。帝国陸海軍の将兵がいかに力戦健闘したか。これは朝鮮戦争で米軍の矢面に立った中国の人民義勇軍も、ベトナム戦争での北ベトナムの軍民も、等しく認めるところでありましょう。

現に、ベトナム戦争時の国防相として有名なグエン・ザップ将軍は、太平洋戦争時の米軍の死傷者数を知って驚き「えっ!?、それでもアメリカは戦争を止めなかったのか?」と日本の記者に尋ねてましたね。

私は殉教したキリスト教徒が死ぬときは痛かったろう、苦しかっろう、辛かったろう、(ひょっとしたら死ぬ前には後悔したんじゃないか、)なんて意味を含んだ言葉をかける勇気は?持ち合わせておりません。享安山人さんの文章を読むまで、そういう発想さえ無かったですね。思想・信条は違っても、人間の世界から名誉の観念を奪ったらお終いです。

人が限りなく卑しいものになり果てることに…日本のキリスト教と大衆民主主義は共通の利益を見出すのでしょうか。

世界に冠たる祖国よ 喜びて汝に捧げん
我等の心、祈り、また奉仕をも

汝の為に汝らの子は 皆 高貴に生きるなべし

時いたりなば 汝の為に 死なんとまでも 願いつつ

高校生の時に読んだ内村鑑三の訳詩です。元はアメリカの詩人ではなかったかな?四十数年前の話になりますが、今でも丸ごと暗記してました。

戦争とは普遍的な問題です。そしてなお、どの戦争にも共通すること、それは「人が死ぬ」ということです。尖閣をめぐって生じるかもしれないことでも、過去の戦争でも。そして私たちに与えられているのは、歴史上の事実です。「人が死ぬ」それを度外視する戦争に関する論議など無意味ではないでしょうか。また、人が死ぬ際の苦痛を度外視しての「名誉」はきわめて空疎なものになりませんか。ましてや私も、人生の先達であられるレッドバロンさんでも(御尊父の御歳から拝察して)、戦争を実際には一度も体験していないのですよ。現実に戦争の犠牲者が味わった苦痛、恐怖、絶望を想像しようとすることが「卑しい」のであれば、私は喜んで卑しい人間となりましょう。

名誉は尊いものです。しかし、それは当人が自らを犠牲にした時にのみ騙られるべき言葉ではありませんか。戦争で当人たちが現実に感じたものを度外視する「名誉」は、生者が死者を利用しての自己満足に過ぎないでしょう。現実の死者が発した言葉、感じた苦しみを追想することは「死を恐れること」を認めることだから卑しい、のでしょうか。死者の最期の瞬間、現実の姿を見ずしての生者による「名誉」こそおそろしく奇怪なものでありましょう。

レッドバロンさんは、遠藤周作の一連の作品は読まれたことはないのですか。遠藤周作は、殉教者が実際に味わったであろう苦痛、懊悩にどれだけ真剣に血のにじむ思いで向き合ったことか。キリスト教徒でも、中世はいざ知らずただ無心に殉教を栄光と讃える人は私は知りません。コルベ神父に与えられた死刑は「餓死刑」です。食物も水も与えられずに獄中で死が訪れるのをまつだけの。コルベ神父に触れた著作では、その際に神父が味わったであろう苦しみに触れているのが多いですね。ボンフェッファー牧師も然り。牧師が獄中で味わった苦悩を追想しようとせずにその殉教を讃えた文章を私は内外共に知りません。死それ自体を讃える思想はキリスト教にはありません。「神の為に、その友の為に」死ぬことが尊いのです。

内村鑑三は、国賊よ売国奴よ乱臣賊子よと罵られても日本を愛し続けました。内村自身はその生涯を見れば分かりますが、喜んで祖国日本の為に身を捧げたでしょう。しかし、その国が他の人々を、日本人であれ外国人であれ死に追い遣ることには、日清戦争を擁護したことを悔いて以来猛然と反対し続けました。「人を殺すことは大罪悪である」と。日露戦争で聨合艦隊が港外に出撃したロシア旅順艦隊を打ち破ったのを知った時には思わず「帝国万歳」を絶叫し、その直後にその心情を激しく悔いる、そういう人でした。「非戦主義者の戦死」に私は戦死者に対する内村の慟哭を見ます。そして戦争への根底からの憤りを。

私は真剣にわからないのです。当の死者が実際に遺していった苦しみを追想してはならない、そういう「名誉」とは何なのでしょう。

「騙られる」は「語られる」に訂正します。

>戦争は普遍的な現象

こういう大上段の物言いは危険です。享安山人さんの教会内なら国家=戦争=人殺しで結構なのかもしれませんが、では国家も戦争もない時代はどうだったのでしょうか?昨今の研究では旧石器人の少なくとも15%は殺害された形跡があるそうですよ。こう言い換えねばなりませんでしょう。カインとアベルの話もこれあり、人殺しは人間の普遍的な問題だと。

私の父に言及されておりますので、あえて申し上げますが、私の父は個別具体的な戦闘体験や行軍の体験は山とありましょうが、普遍的な戦争の体験などという存在しないもの語ったことはありません。

自分が「戦争体験」を代表する語り部など…そんな不遜な者がいたら、それだけでいかがわしいと、どうしてお感じになりませんか?

自らを犠牲にした当人以外は名誉の観念を語ってはいけないとなると、当人は既にこの世にはいない訳ですから、苦痛に満ちた生以外は何も語ってはいけない事になりますね。普通は逆だと思いますが。

日本は自力では守れない国だと云うのも、GDP2位か3位が自国を防衛できなくて、一体どこの国にそれが可能なのですか?
戦争は絶対悪だということで自衛力さえ満足に認められず、散々に足を引っ張っられた挙げ句に、この期に及んで単独防衛は不可能だから平和が大事だと言われても、一体それは論理になってますか。

一般に プロティスタント国は史上最強の国民国家であり、ヨーロッパを見ても軒並み軍事強国に思えますが。

冷戦期間中に、スウェーデンなど、入江深くに領海侵犯していた国籍不明の潜水艦に躊躇なく爆雷を投下しています。多分、ソ連の潜水艦が故障していたのだと思いますがね。

世界中どこを見たって、安全保障に対して日本のうに特異なセンチメント、ナイーブさで対応する国はありません。

中国は 1964年 東京オリンピックの開催中に核実験を行い、文革期も鉄の意志で推進。80年代からは宇宙開発に乗り出し、現在はいよいよ海洋に進出中。これは全部関連していて、ぴたっと一貫した国策でやってます。力しか信じない彼らは日本のような大甘とは訳が違います。

途中、毛沢東が七億のうち一億死んでも、まだ六億残ってると発言して 周りを唖然とさせましたが、米ソが中国の人民戦争理論に怖気をふるって介入を躊躇う間に核兵器を完成させてしまった。
ああいうのが中国大陸の支配者なのですよ。念のため申し上げておきますが、私は良い悪いなんて、一言もいってません。
中国をチャンコロ扱いして軽視する論議にも与しませんが、相手の政策決定のプロセスも意図も判らいまま、平和共存の結論ありきとは?

フランスは社会党政権になりましたが、核を手放すなんて発想は毛頭ありません。左翼でも保守派でも、キリスト者でも、無神論者でも、フランスの安全保障についてさしたる考え方の違いはありません。どうして日本の中にはこんな変な議論があるのか、いつも不思議でなりません。

国家が存在するようになった時代、つまり「歴史」の始まる時代からのことを指して「普遍的」と言ったのですが、国家がまだない時代も確かに人間は存在していますね。ご指摘に従ってあらためます。

自分だけが戦争体験を語り得ると思っている人は、広島、長崎、沖縄の語り部の人たちの中にはおそらくいないかと。ただ自分が目にした、全身で感じた惨禍を語っているだけでしょう。

その当人が明らかに自発的に身を捧げた時に、と「名誉」のことについて申し上げているのです。実際には「自発的に」の名で「その場の空気」によって強制された事も多々ありますから、それだけ他者が「名誉」について語るのは慎重であるべきではないでしょうか。ある人が特攻犠牲者の苦悶について追想したら「英霊を冒瀆するのか」と反論する右翼がいたそうですが、その右翼の論法は死者を利用する例の一つでしょう。それを更に進めて「特攻隊員が死に際に『お母さん』と叫ぶなど有り得ない。日本万歳と叫んで死ぬべきだ」云々と言い放った有名漫画家もおります。自らを祖国に捧げた人間が最期の瞬間にひとりの人間として、最もよりすがりたい存在を叫ぶことすらその漫画家は否定しました。人間性の否定、国家の偶像崇拝化の極みでしょう。

日本が凋落傾向とはいえ、まだまだ経済大国であるのは、軍事力の膨張に歯止めがかけられていたからこそ、ではありませんか。その分を経済発展に注力することができました。足を引っ張られるどころではありません。そもそも日本は軍事力だけで防衛しようとしても、その地理上の制約から他国に「事前に侵攻を諦めさせる」以外に選択肢は有り得ない国家でしょう。敵軍を一旦自国領内に引き込んで・・・といった古風ですが有効な戦略が可能な大国ではありません。アジアの中では「粟散辺土の国」であるとの謙虚な自覚が必要でしょう。

「中国人民解放軍が侵攻による犠牲をためらうほどの通常の防衛力を整備する」と共に「善隣友好に努める」これ以外に選択肢がありますか。「自立」して核兵器を持って、それによって北朝鮮にも韓国にも公然と核武装させて核保有国だらけにして一触即発の状況を拡大再生産するのですか。

旧ソ連とも共存した、せざるを得なかった日本国です。「平和共存」せざるを得ないのです。日本国民ひとりひとりの人生の為に。「平和共存」のために防衛力拡充が必要であるというならば良いですが、最初から軍事的対決ありき、ではそれこそ戦争以外に道はないではありませんか。

私は欧米の論者というのはもっと幅広いものだと、自分なりの学びから思っております。私がその聖書注解を読んでいる、英国のある著名な牧師は明確に戦争それ自体に反対でした。

そもそも誰が特攻隊員の最期の声を聞いたのでしょう。
「お母さん」云々 …もおかしな話で。操縦席に、誰か一緒に乗っていて、まさか、その人は生還したとか?悪い状態はよして下さい。

一点だけ言わせて頂ければ、そういう見てきたような私小説的な話をするのも、特攻隊員の死の立派な政治利用です。

反戦・反軍・その実は反米、反日は戦後の反体制イデオロギーの一貫した政治行動です。闘う意志があるならどうぞ。昨今のプロテスタント教会の一部は創価学会より遥にイデオロギッシュであるという印象を深めています。

享安山人さんの思想傾向はその言葉使いからも十分に判ります。信念と言われれば、もはやそれまですが、キリスト教徒は南北アメリカの先住民を殺戮し、いまさら抗議をしようにも、その子孫はもはや殆ど残っていない惨状…多くの民族や部族が丸ごと消え、その文化や宗教や言語も失われました。

それで労働力不足に陥って、アフリカから黒人を奴隷船に載せて輸入せざるを得なくなった…そのような悪逆非道な文明に生まれなかったことを私は感謝しています。

日本が軽武装で経済成長したというのは戦後の神話です。同時期、西ドイツの防衛費はGDP比で3%日本の約3倍の負担をしています。冷戦終了後の現在は1、5%で半減していますが、これでも日本より五割多いですか、状況に応じ、めりはりがありますね。
兵員数でいうと50万から現在25万に縮小中です。
一番の違いは 90年代のアメリカからの内需拡大要請をドイツは拒否し、日本は丸呑みしたことでしょう。日本は過剰流動性を引き起こし、バブルの破裂をへて第二の敗戦と言われるまでの惨状を呈しました。実際、不良債権の処理費用は、第二次大戦の戦費に匹敵すると言われています。

アメリカに対する日独の自立度の違いが端的に出ました。「安保ただ乗り論」のツケは大きかったということですよ。安全保障は全てに関わります。日本だけが甘い汁を吸えるような話がある訳ないではありませんか。国益のかかる事については、聞かれたら終わり、余計なことは言わないなことです。

レッドバロンさん、こんばんは。

実は今回の書き込みを読んで驚愕し、いささか混乱しております。
まず、特攻隊員のことについて。私はとある有名漫画家(小林よしのり氏ですが)が「日本万歳と『叫ぶべきだ』と言い放ったことを問題にしているのです。多くの特攻隊員が数多の遺書でどれだけ母への思慕を示しているかは言うまでもないでしょう。確かに特攻隊員の最期の声を聞くことはできません。しかし、彼らの遺書や、数多くの戦記で死の間際の将兵が何を叫んだか記されていることを思えば、ある程度追想することも難いことではないでしょう。「特攻隊神よ神よとおだてられ」と痛憤の句を遺して死んでいった隊員もいたのですから。死者の最期の現実の有様への追想を「私小説的」と切り捨てることこそ、戦争の実態を直視しないことではありませんか。そして「私小説」の何が悪いのですか。

>反日
私は自分なりにこの国を愛しているつもりですが、何と闘うというのでしょうか。そして「反日」の定義は何ですか?キリスト教を信仰していることでしょうか。私自身は「反日」という言葉は少なくともこれからは一切用いないつもりです。

そしてこの一言に驚愕しました。

「悪逆非道の文明に生まれなかったことを感謝」。

「我をして自己を高ぶらしむるに至れば我の善行は我が敵なり」との内村鑑三の言葉を思いました。確かに欧米文明・私が信仰を同じくするキリスト教徒が行った蛮行は是認できるものではないでしょう。しかし、「悪逆非道」でない文明など、民族など、国家などありますか?博識のレッドバロンさんがまさかこのような言葉を発せられるとは思いませんでした。日本がもしそうだ、というのならおよそ認識を異にしますし、仮にそうだとしても、それは単なる地理的要因、科学技術の発展度の差によるものに過ぎますまい。
この島国の中で記紀の時代からどれだけ流血の惨事を繰り返してきたことか。

そして疑問に思ったことが一つ。レッドバロンさんはバークやチャーチルを評価し、「ルール・ブリタニア」を賞賛されていましたが、彼らや「ルール・ブリタニア」が象徴する大英帝国こそがその「悪逆非道」を極めた一国ではありませんか。

21世紀ですらキリスト教が「悪逆非道」で片付けられるのですから、内村鑑三や矢内原忠雄、賀川豊彦、植村正久、山室軍平らはどれだけすさまじい無理解の中苦しんできたのだろうか、とあらためて先人への畏敬を覚えた次第です。

今日はここまでと致します。

いささか誤解を招く表現を使ったのは、私は謙虚で真面目な享安山人さんの発信からさえ、一神教の傲慢を感じたからだと思います。

人の内面に立ち入ることを基本的に日本人はしません。親子であれ、互いに理解できるまで話し合いを…なんて気色悪い…そんなことするなら、死んだ方がまし、と言うのは冗談ですが。

ましてや(私小説作家)なんて!?精神の形態としては最も軽蔑される人種ですね。但し、日本の文学で何故、あの分野の文章が精緻を極め、描写力に優れているかは別段の話で、私にも謎です。


私は自分の父親がどんな気持ちで出征したかということさえ、余り想像したことはないというか、殆ど興味がないかもしれませんね。人間には公的な精神もあれば、私的な感情もある。その間で揺れているのが普通の人間で。そのどちらが本物か、などと第三者が問うこと自体、卑しく情けない作業だと思います。

但し、人には勤めがあって。勤めには好きも嫌いもありませんよ。原発事故の時、六十五歳以上のOBが決死隊を作って現場に赴くという話があって、但し、一つだけ願いを聞いてくれ、残った妻子のことだけは宜しく頼むと。今も昔も日本人はそんなものです。私もそうだもんな。自分の事に、そんなに興味ないです。

次いで、英国はアメリカのような「正義の国」ではないから、私は安心して見ていられます。それでいて、タクシーに乗れば安心とか、秩序感がありますし。真珠湾攻撃よりコタバルへの強襲上陸は早く始まりましたが、それについて英国は文句を言ったことはありません。スネに傷持つことを自覚している者の良さです。

戦後日本のように 平和的な国はないことは、誰しも認める所でありましょう。いや、それが解っているから、中・韓は押し込んでいる訳で。日本はいじめられっ子と一緒ですね。そこで いじめられっ子に向かって、暴力反対を言うことに一体、何の意味が?

私は中学時代に悪タレがかかって来た時に、居合わせた野球部員のバットを借りて、ぶちのめしてりて打ちのめしてやりましたけど。親から貰った体を傷つけたり、ましてや首をくくって自殺するくらいなら、戦うべきです。

現在の日本は侵略されている側なのに、戦争反対とは?さてはて、意味が判りません。非キリスト教徒、非白人の日本人は永遠に安らえることもなく、神の法廷ならぬ歴史の法廷に引っ張り出されて、1兵士に至るまで、自発的意志だったのか、封建的な社会ゆえの同調圧力があったのではないか、と尋問を受けるる。しかも、それを現在の政治判断に結びつようとする。センスの良い話ではありません。

キリスト教以前にも、静かに死ぬことの出来た人間がいたことをヨーロッパの人間は知っております。私がとくに違和感を抱くのは歴史的な経過を欠く教会の方なのでしょうね。そういう人達は懸命に日本を否定します。
お陰様で最近はキリスト教を受け入れないユダヤ人の気持ちが、少しだけ判ったような気がします。
ユダヤ人のラビの書いたものを読むと、頭の中が透明になり、血の巡りが良くなった感じがします。元祖ヘブライズムは押し付けがましさがなく、言語明晰、日本人に対して、上から目線なんて不愉快な感じは微塵もありませんしね。こんなに頭が良くて、優秀なのに、(いや、それ故に)キリスト教を受け入れない。西のイスラエルと、それ程ではないにしてもかなり優秀な東の日本は、キリスト教にとっては困る存在なのだろうな、その歴史的な運命を考えさせられる昨今です。

こんばんは。嘗てガンジーは「ナザレのイエスは好きだがキリスト教徒は好きになれない。その教えと逆のことをしています」と語ったそうですね。私としてはこの享安山人を評価してくださるよりは、キリスト教への誤解を解いてくださるほうが遥かに嬉しいのです。

「一神教に比べて多神教は」的な主張は大いなる誤解、現実の無視だと思っております。私が嘗て暮らしていた札幌は「北海道総鎮守」という大きな石標に導かれて北海道神宮に至る大路が整備されていますが、多神教、あらゆるものを受け入れるはずの神宮にアイヌ民族の神々、祖霊へ敬意を示すものはありませんでした。アイヌ民族にとっての聖地はダム建設で危機にさらされました。伊勢の内宮を水没させるようなものです。さらに遡れば、徳富蘇峰は太平洋戦争で獲得した「新領土」の民に、陛下を「現御神」と仰がせて「絶対随順」せしめるよう、服従せぬ民には「猛断威決」(その具体的なことはご承知だと思います)を以てせよと説きました。それに類似したことを列挙すればきりがないでしょう。力即正義と信じる傲慢な姿勢であれば一神教であれ多神教であれ何を信じていても変わりません。

また、私は人間が自分の内面を見つめるのは極めて大切であり、遺された当人の言葉や行動から歴史上の人物の内面を探ることは歴史研究上極めて重要だと思っておりますので、「私小説」的なものへの軽蔑の念は全く抱いていないのです。これもご存知の話でしょうが、インパール作戦の失敗を悟った牟田口司令官は自分から作戦中止を言い出せず「目をみて察して欲しかった」と後で述べたそうですね。こういう場合は徹底して本音をさらけ出すことこそ部下将兵への責務だったでしょう。特攻作戦を実施すれば陛下は戦争をやめて下さるだろうと思っていたという大西中将も然り。部下将兵の命を敵艦に叩きつける前に、自分たち帝国海軍の面目一切を棄ててでも陛下に前線の実状を奏上できなかったのか、それこそが勇気だっただろう、と私は後智慧は後智慧も承知で思います。もし自分がその立場だったら何も出来なかったことを重々承知で思います。

そして、国際上の、領土をめぐる争いに「いじめっ子」「いじめられっ子」という概念は適切でしょうか。たとえばジブラルタルをめぐる争いでは、英国とスペイン、どちらかが「いじめっ子」なのでしょうか。竹島は韓国に占拠されていますが、尖閣諸島は曲がりなりにも日本が管轄し得ている地です。

千変万化する状況にかかわらず、常に平和を語ることを義務付けられているのがキリスト者であります。

先の大戦の裁判では確かに不条理なことは数多ありましたが、力即正義であるかのように振舞っていた我国がその力によって敗れた以上、裁判が行われたことそれ自体は受忍せざるを得ないでしょう。自分が勝者の時には堂々たる学者まで「国際法などユダヤの陰謀だ」とうそぶいていた我国です。第一次大戦では敗者の皇帝ヴィルヘルム2世を法廷に引きずり出そうとしたのも我国です。そして、現代であっても、否、時間を経たからこそ時の当事者たちの言動は史書では冷徹に語られねばならないと思います。

日本への言いがかりは もうその辺でやめましょう。

それぞれの民族にはそれぞれの神があり、日本の神道にアイヌの神々がいなくても当たり前ではありませんか。日本人はアイヌ人の信仰に理解がなく興味もないかわりに、干渉も否定もしません。
すべての者に罪ありはキリスト教内部の特殊倫理か、或いは詭弁です。妄想しただけでも犯罪なんて、そんなバカなことが、あるわけないではありませんか。現実の社会は量刑で判断されます。

キリスト教徒の犯罪は世界規模で十数世紀の長きに及び、他のいかなる宗教が比ぶるすべもありません。

「北の十字軍」では、ドイツ騎士団からの問い合わせに対して、非キリスト教徒は人間ではないと、教会は事実上の全殺戮を許可していています。正式な議事録も残っています。

私にこんな話をさせるのは亨安山人さんが初めてですよ。

私はキリスト教の結婚式や告別式に出て、一緒に説教を聞き、賛美歌を歌い、アーメンも唱和して、その教会の中では神としてイエス・キリストに一緒にお祈りもします。

私のプロテスタント系の友人は先日、病気の知人を励ますために、仲間と一緒に巣鴨のとげぬき地蔵にお参りしてきました。この人のお祖父様は新島穣のお弟子さんです。それ以来、三代に渡って牧師、学者、建築家、芸術家を輩出してき家です。キリスト教徒は日本では極少数派ということを自覚し、他人の財産や組織に依存せずとも生きられるよう、その子弟には自立できる職業を持たせる…他力本願の対極、私にとって日本のプロテスタントのイメージはこのような人達なのです。

また私の知り合いのカトリックのお嬢さんはお神籤も引くのが大好きで、代表的な神社は軒並み参拝してるんじゃないかな。お母様は有名な女性で、靖国神社の委員か何か為さってます。さらに、別のカトリックのご夫妻に至っては、仏寺の檀家総代なさってます。個人の信仰と、一家一族への責任は別ということでした。今はそういう時代なのです。やっとここまで来たと言うべきでありましょう。

私はよちよち歩きの頃に浦上天主堂に詣で、自分では覚えてませんが、神父になりたがっていた子供です。それが今や、すっかりキリスト教が嫌いになりかかっています。
年末、風邪を引いて寝ている時に、ローマ時代のテラスにいる夢を見て、キリスト教以前の朝の光は、何と清々しく美しいのかと思いましたよ。

日本が普通の国家であったなら、対中・韓関係は成り立ちません。あれは国際関係でありません。
ドイツ皇帝云々とか、そんな理屈は聞いたこともありません。そこまでして、東京裁判を擁護したいのですか?その歪んだ情熱は一体どこから来るものか。東京裁判で被告を弁護したアメリカ人弁護人は極めて優秀で、ほぼ理想的な弁論を展開しました。職業倫理に沿って、あれが知性というものありましょう。真っ当な裁判なら弁護側が勝っていたでしょう。それは偉い人達ですが、BC級裁判で殺された何千人の軍人の他に、まだ足りないから誰それは腹を切れだあ、それがクリスチャンの言うことですか!

ニーチェの言う、キリスト教はあらゆるルサンチマンと下劣な感情の掃き溜めだ、というのは真実でしたね。少なくとも部分的には。

このブログを開くだけで、最近は己の魂も体も汚れる気がします。恥を知るべきです!

なんとお返事すればいいのか・・・。

まず申し上げたいのですが、我々「和人」が武力で「アイヌモシリ」を併呑した以上、もはや原状回復などできない以上、せめてその地の先住民に敬意を抱くのは当然ではありませんか。ましてや「超宗教」を謳っていた神道が、先住民の信仰に興味も関心もない、で済まされるはずがないでしょう。

親鸞は言ったではありませんか。「我が心の良くて人を殺さぬに非ず」と。現実に・・・は世俗社会の法律論です。宗教で「現実に悪を為していなければそれでいい」など私は聞いたことがありません。

「北の十字軍」同名の講談社学術文庫版がありますね。逆にお尋ねしたいのですが、今のキリスト教徒で当時の騎士団の所業を是認する人がどれだけいるのでしょうか。

そして「他力本願」の意味は今更説くまでもないでしょう。内村鑑三は個人、そして日本の教会の自立独歩を何より重んじていました。信徒がもし他者に善を為し得たとしても、それはその当人が善人だからではない。キリスト教では主なる神、浄土教では阿弥陀仏に拠るのである、そういう意味ですよ。

明治の昔、植村正久たちは、基督者は皇祖の宗廟であろうと産土神のお社であろうと拝跪してはならない、ということを信徒たちの協同の誓約としました。私もそれを受け継いでおります。とげ抜き地蔵に詣でるのも神社に詣でるのもその方々のお考えがあるのでしょう。カトリックの曽野綾子さんは靖国神社に、プロテスタントの石破自民党幹事長は橿原神宮に参拝していますね。そうされたい方はそうされればいいのです。しかし私は神社参拝は「人を神とする」ことになると思いますので、参拝はしません。

ヴィルヘルム2世皇帝の一件は、寧ろ最近では東京裁判の事後法に拠るものであることを訴える主張に対しては普通に見られる意見だと私の知る限りでは思っていたのですが。自らが勝者の時は、(当時は敵とはいえ)我国が大恩あるドイツ帝国の皇帝陛下を法廷に引きずり出すことについて英仏に追随し、自国が敗者となるや同じことをされようとして事後法だと言うのは武士の道ではないでしょう。我国敗戦のほんの27年前のことですよ。ヴィルヘルム2世皇帝の問題は。自らが勝者の時は敗者に課したことであれば、立場が転じた時には甘んじて受ける、その上で自分たちの主張を唱えるのが武士道というものではありませんか。戦犯の裁判はポツダム宣言で明記されています。我国はそれを受諾しました。そしてサンフランシスコ講和条約でも受諾しました。

「腹を斬れ」石原莞爾のことについて言及した時、私は確かに申しました。「自決すべきだった」と。

それは基督者として言ってはならないことは十二分に承知しております。しかしそれでも私は内なる感情としてそういう思いを抱いたこと自体は否定できません。主が認め給わぬことだとは知っております。

満洲国崩壊の折、死に追い遣られた日本人居留民は確か18万人。誰かがその罪責を負わねばならないのです。中立条約を破棄して侵攻したソ連が悪い、だけで済ませられる問題ではないでしょう。このよな悲惨な大破局を前にして、せめて建国に責任のある人々は全国民、全世界に真実を明らかにすべきだったと私は思います。本庄大将は哀しいことに遺書でも関東軍の謀略を否定しました。前にも述べましたが「人間、死を前にしても嘘を語るのか」ととにかくやり切れない思いがあります。「皇軍の名誉の為だ」という反論もあるかもしれませんが、虚偽に基づく名誉など有り得ないでしょう。生き続けた石原中将は何を語りましたか。この享安山人でも唱えないような完全非武装、「寸鉄も帯びない国家」になれ、と説いたのですよ。嘗て、全世界を肌の色で二分して憎悪させて大殺戮を展開させようとした同一人物が、です。そして米軍の尋問官には、酒田の出張法廷では何一つ真実を語りませんでした。「私こそが裁かれるべきだろう」云々はどうも神話のようです。そして実際に語ったことは「ペリーを呼んで来い」でした。これが米国へのルサンチマンでなくしてなんでしょうか。全国民に真実を明らかにする。陸軍中将の地位にあった人物への要求として苛酷なものだとは思いません。生きる道を選ぶのであれば、それが責務でしょう。東京裁判で多くの国民が抱いた印象は「騙されていた!」ではありませんでしたか。

レッドバロンさんは「ルサンチマン」だと私の書き込みについておっしゃいます。そして私の文章で「魂も体も汚れる」と。しかし私は自分の思うことをこれからも語り続けるでしょう。それでご心象を害されるのは私の望む所ではありませんが、已むを得ません。自分の考えたこと、思ったことを率直に語らないわけにはまいりません。

私は、嘗て史書を読んでいてナポレオン軍のネイ元帥の死を全く恐れない勇猛さに畏怖の念を覚えておりました。しかし、ロシア戦役で退却行の余りの凄惨さに思わず哀訴の声を挙げた一兵士を即刻射殺させた、という話を知って考えが変わりました。「兵士とは死ぬべきものだ」だそうですが、私の抱いた感想は「元帥は生命の価値を軽んじているだけだ」と。他人の生命に無頓着だから、自分の生命にも関心がないのだと。非礼を承知で申しますが、レッドバロンさんの所論にはこのネイ元帥に通じるものがあるように思えてなりません。

先だって読んでいた『ミッドウェー海戦』では禅に深く通じた蒼龍艦長柳本大佐のことが語られていました。下士官にも親身になって艦長室で死生観を語る優しい武人だったようですね。艦が沈むに当たっては兵士たちを「(海に)飛び込め!飛び込め!」と叱咤激励し一人でも多くの命を救おうと尽力し、自らは最後まで助けを拒んで艦、そして戦死者と運命を共にしました。名誉とはこのような武人にこそ伴うものでしょう。

公平な比較対照をしておりませんね。日本に対しては神の法廷で裁くがごとく厳格、それも自らが裁判官ではない、検事の役割を果たす。キリスト教徒にはいかほどの犯罪行為っても、それは個人の欲得でなしたこと。

そもそもドイツ皇帝は事後法で裁かれていないではありませんか。外交的にジェスチャーがあったとかないとかいうレベルと、現実に裁判所が設けられ、戦勝国が判事を務め、裁判長があのような訴訟指揮を行い、被告人を最初から死刑ありきで断罪した現実と同一に見る、凡そ貴方には物事をまともに比較対象する精神の機能は存在しないようですね。

それはアメリカのイラク侵攻と同じで、最初から結論があって「探せば」理由はどっかに書いてありますよよ。アイヌだ、沖縄だも一緒で、それは日本の歴史上の欠陥を探せば何点かは、見つかりますよ。実際、極左の諸君はそんなことばっかりやって、一生を終えますが。

西部さんの一言半句半句を取り上げて全著作を拒否するのも自由なら、新保さんの文を批判して文意ではなく、媒体の悪口を言って終わるのもご勝手ですが、この勢いでは、私が何を心配しているのか、汲もうとしないのも当然か。

私は極左まがいの一部の信者の言動によって、今まで築き上げられてきた日本のキリスト教への日本人の尊敬と信頼が失われることを無念に思っているのです。

「夜と霧」の作者フランクルは、どちら側にも まともな人間と、まともでない人間がいると書いています。地獄以下の絶滅収容所にあって、驚くべき冷静な観察力を示していますが、しかし、そんな知性のある人は人類の1パーセント以下でしょうよ。親衛隊員というだけで、収容所とは関係のない野戦部隊の兵士まで報復で殺されましたからね。

要するに まともなクリスチャンに迷惑がかかるだろうな、ということを遠まわしに言ってきたのです。地下教会で信仰している時代ではない、右であれ左であれ、滔々たる大衆社会の中で生きているのですから。

聞けば聞くほど「主義者」と「一神教」は日本には不要である、という結論に達しますね。二十一世紀にガリラヤの徒はいりません。これは歴史的存在の教会ではなく、いつまでもカルトまがいの、未熟なという意味ですよ。

「他力本願」の対極と言ったのは、天は自ら助すく者を助く、明治以来の近代資本主義の精神とブロティスタンシズムの親和性について述べているので、日本におけるキリスト教のイメージは、頭が悪くて貧乏くさい原初のそれとはイメージが違うのですよ。キリスト教などよく解らない人達からも社会的に尊敬された、それもご不満ですか。
イメージなどと言うと、それも偶像崇拝と言われるから、もうやめますが、最近は美しい音楽を聴いても、これも罪悪か?とカルヴァン派の恐怖に脅える毎日です。そうだ、今年は伊勢に行こう・究極のリフレッシュ!今までに一度も行ったことがないので。

享安山人さん、さようなら。

追記

「神社は人を神とする」から参拝しない、という言い方もどうでしょうか。キリスト教はイエスという「人」を神とする宗教の最たるものではありませんか。

厳密な一神教のイスラム教徒やユダヤ人が聞いたら、大笑いしそうな話です。

キリスト教の神学的な構造は理解しているつもりですが、他方から見れば悪いジョークにしか思えません。立体的にモノを見るとはそういうことではありませんか。個人的な信念にのみ寄った文章を書いていると、つまんない奴と思われて、読者という知的な友達はできませんですよ。

私は個人的には享安山人さんに神社に参拝して欲しいなどとは全然思っておりません。ただ一般論として、翻訳の聖書を読んで古代のヘブライを理解したつもりになり、日本の神社が未だに保っている古代の清浄な息吹きには目もくれぬ…いかにも寂しい話だと思いますよ。では普遍的な神があるとして、古代の日本には何一つ働きかけなかったのか…、その痕跡はどこかにあると思うのが普通だと思いますがね。

けっしてお勧めしておりませんので、くれぐれも誤解なきよう。他の人が読むことを想定して書いておりますので、それではもう一度、さようなら。

貴重なお付き合いでしたが、ここを見るのが「魂も体も汚れる」のであれば已むを得ないですね。残念ですが、仕方ありません。私も自分の所論を変えようとは思っておりません。

もうレッドバロンさんはここを見ておられないでしょうが、自分なりに最後に整理をしたいと思います。一連のやり取りを御覧の他者もおられるでしょうし。レッドバロンさんに答える形になります。

「拓け満蒙」といった国策を信じてかの地に渡り、最後はすべてを失い自らも肉親も悲惨な死に追い遣られた18万人の日本人居留民。そしてその居留民によって土地を奪われる形になり、日本を怨嗟せざるを得なくなった現地の中国人民衆。そういう惨事を前にして満州国建国の責任者の罪責を問うことは「ルサンチマン」なのですか。「ルサンチマン(怨嗟)」を抱かざるを得ないでしょう。むしろ私は彼らの人生をめちゃくちゃにしたことについて責任を取ろうとしなかった、最後まで真実を告白しなかった石原中将らを庇い、批判者を「ルサンチマン」の言葉で蔑み、「名誉」を持ち出すレッドバロンさんの所論こそ不思議にしか思えません。同胞18万人の無念を無視して、何の、誰の「名誉」を守るおつもりなのか。

嘗て満洲事変の当時の「民心」を以て満洲事変を正当化しようとされましたが、東京裁判当時の「民心」はどうだったでしょう。検事になって云々と言われますが(佐伯啓思氏も同じことを著書で述べていますが)、告発せざるを得ないでしょう。罪責を負うべき人間は確かにいるのです。裁いたのは確かに勝者です。しかし、日本側で堂々と実際にあったこと、事実をありのままに語り、「事実はかくかくしかじかであった。それは私の君国を思う信念に基づくものであった。それを罪悪とみなすなら裁きなさい」と決意を述べた人がどれだけいたでしょう。東條大将は数少ないその一人かもしれませんが。日本側の弁護資料となり得た膨大な各官庁の公文書を「三日間霞ヶ関の空に煙が満ちた」とまで言われたほどの「痛恨の焚書」にしたのは当の日本側でしょう。事実を以て事実を語らしめる、です。

私は「個人の欲得」などと申しましたか。北の十字軍でも石原莞爾でも彼らなりの使命感、(誇大妄想ですが)理想に燃えていたことでしょう。それは免罪の理由にはなりません。

ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が法廷に立たずに済んだのは、中立国オランダが引渡しを拒んだ、ただそれだけの理由です。皇太子から帝国宰相以下をも裁くつもりだったと聞いております。「最初から死刑ありき」。「カイゼルをビッグ・ベンに吊るせ!」とロイド・ジョージは叫んだそうですが。紛うことなきヴィクトリア女王陛下の孫をそうしようとしたロイド・ジョージの品位の無さには驚きますけどね。

私の文章によってキリスト教への日本人の尊敬の念が失われることを心配されているとのことですが、「イメージ」の破壊を恐れて信徒ひとりひとりが言わんとすることについて自ら口を封じる、というのはキリスト教の自殺です。日本人口の1%弱に過ぎないキリスト教徒ですが、それでも100万人を越えるのです。各自意見、思想の相違があって当然でしょう。遥かに苛酷な時代、内村鑑三は「非戦論など唱えたら基督教徒は国賊扱いされるから」と口を自ら封じたでしょうか。「世を愛すること最も深くして世に憎まるること最もはなはだしき者はキリスト信者なり」と内村は語りました。彼の偽らざる実感だったでしょう。

原語で古代ユダヤの律法学者の書を読み、原語でプルタルコスほかに「ヘラスの精神」を学ばれている方からすれば、いかにも日本語訳で聖書を学ぶことしかできない私は未熟そのものでしょうが、翻訳でも聖典であるというのはキリスト教の基本です。そうであればこそキリスト教は世界中に広まったのです。アラビア語のコーランのみが聖典で、他国語訳は「参考書」に過ぎないイスラム教でも、アラビア語を理解できる人が「世界最大のイスラム教国」インドネシアにどれだけいることでしょう。

「ジョークに過ぎません」その他宗教の方からすれば「ジョーク」に過ぎないことを真面目に真剣に信じるのがキリスト教です。それはどの宗教でも同じではありませんか。「清浄な古代の息吹」が、とくに伊勢神宮については近代に生み出されたものであることを歴史学者は教えてくれますが、それについては敢えて語りません。

私が文筆業者であれば、自作を買ってくれる読者を獲得しようと努めるでしょう。『WILL』『正論』、時流に乗った勇壮な文章で毎号溢れかえっていますね。しかしここは私が自分の思ったこと、考えたこと、感じたことを率直に綴る場です。「アクセスカウンター」を見ても分かるように、もうここのブログが出来て何年にもなりますが読者は寥々たるものです。実際この享安山人、享安堂の人気は低いのでしょう。しかし私は馬鹿正直に、生真面目に信念を語ります。今の時代、否、戦前から日本では「言霊の国」と言いながら言葉の価値が余りにも軽い。王道政治を論じながら舌を出した岸信介然りです。『国体の本義』『臣民の道』いずれも美しい言葉が綴られています。しかし、当時の文部省教学局の人間がどこまで真剣に、書かれていることを自ら信じていたのか。

書きたいことはまだまだありますが、冗長になりました。嘗て内村鑑三は幾度も幾度も「さようなら」を同じキリスト教徒、そして愛弟子たちと経験しました。彼が望んでのものではありませんが、信念を貫いた結果でした。

さようなら。

享安山人さん、貴方のやってることは政治宣伝の典型です。

石原莞爾個人への好悪は別にして、(個人的には石原は仕えたくない上司の代表例ですが)

昭和6年の満州事変当時、一中佐参謀に過ぎない石原に、14年後の第二次大戦の責任をどうして着せられるのか?途中、どれだけの数の政治家、文官、武官が節目節目の政策判断に影響を与えていると思いますか。

法的な論証はまったく無しに、悲惨な民衆の姿を情緒的に対置して、その時々の強者のイメージがあるものの責任を声高に追求する。現在も繰り返し行われているプロパガンダの典型的な事例です。

悲惨な状況があれば、論証を無視してよいことにはなりません。論理的な誤謬というよりは、ヒットラーやスターリンが多用した政治宣伝の代表例ですね。

満州国の崩壊を受けて、いかなる事情があれ、国境の防衛は蔑ろにしてはならない、というのが一般的な教訓だと思いますがね。日ソ中立条約を破ったソ連の非道は無視し、スターリンの思惑も、ルーズベルトの判断ミスも考慮しない。そもそもあちら側の資料が全部テーブルに上がっているかどうかも極めて怪しいのに、世界史は日本人の責任追求をすることだけで完結する、それはもう強迫神経症という病気です。

「満蒙問題」にしても、今の日本人でさえが、血を流しても戦わざるを得ない程度の国益、と仮定してみなければ、当時の感覚はまったく理解できないでしょう。理解できなければ、忽ちに断罪が始まるというのは、歴史に名を借りた憂さ晴らし以外の何物でもありません。

日本の騒がしい新興キリスト教徒が、罪過の、赦しのと大騒ぎして、誰かを引っ張っていくと、あなた方の主は、地面に何かって字か何かを書いていて、

汝らの中で 罪なき者 まず石を投げ打て

と、顔を上げずに静かに仰る人だと私は思っているのですが、違ってましょうか。

己の宗教的信念を明らかにした上で、それをただちに現今の政治的判断に結びつける愚かさは、他の日本の宗教にはないものです。

日本でキリスト教を信じることが揶揄の対象になるのではありません。その未熟な、愚劣としか言いようのない自称キリスト者の言動が物笑いの種になるのです。

愚かな者とは 己の愚かさを喧伝して歩かずにはいられないものだ、と、旧約聖書の箴言にも書いてあります。

個人的な無益は承知の上で追記しました。フランスの某カトリック作家は魂は量の問題ではなく、質の問題である、と書いておりますので。私なりに多少の影響を受けております。

これからは 健康体とのやり取りに限定したいと思います。

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