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東條英機陸軍大将の次男・東條輝雄氏死去

東條英機陸軍大将の次男・輝雄氏が亡くなられたそうです。

かのYS11機を開発されたとのこと。

私が生まれて初めて乗った飛行機が、このYS11なのです。
小学2年の時でした。
伊丹空港から現在の地に移転する前の秋田空港まで、
3時間近い旅だったと記憶しております。

幼い私への乗務員の親切さ、
プロペラの轟音や上空から見る景色の素晴らしさと共に、
佐渡ヶ島が、当たり前なのですが地図通りの形をしているのに
大いに感激したことを今でも覚えています。

名機を作って頂いたことに感謝したいです。

言うまでも無く、父は父、子は子です。
(私が旧約聖書のエゼキエル書に接して以来の固い信念でもあります)
父の行ったことの責めを子孫が負うべきだといった思想には断固否を唱えます。
これからも唱え続けます。

そしてまた、為政者である東条英機元首相の罪責を史書に留めることと
一人の人間としての東條大将の救いを祈ることとは
キリスト者として全く矛盾するものではありません。

森光子さんの死去や、衆院の解散決定といったこともありましたが
今日の私にはとりわけ心に残る事でした。

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歴史・宗教」カテゴリの記事

コメント

東條輝雄氏、亡くなりましたか。三菱重工の役員なのは存じてましたが、先ほど確認しましたら、その後は重工の副社長から、三菱自動車の社長に転じておられたのですね。

祖父の東條英教中将は陸大一期生・首席、父・英樹大将も一時期は「カミソリ東條」と謳われた人物ですから、優秀なDNAなのでありましょう。

祖父は天下の俊英でも、二代三代過ぎると、見る影もない…人柄は別にして…は、良くあることで、寧ろそちらの方が多いかもしれません。

東條大将の次男が、航空工学畑に進んだのは、大将が積極的に勧めたかどうかまでは不明ですが、少なくとも反対はしなかった。東條大将の意外な?先進性というか、あの時代には水準の人物だったことが、こんなエピソードからも、何となくですが、判りますね。

YS11型機は 私もずいぶんお世話になりました。昔、仕事で高知県を担当していたことがありまして。直行便はなかなか取れないので、大阪空港経由で高知行きに乗り換える便が、必ずYS11でした。四国山脈の上空を何度も一緒に越えてゆきました。乱気流に巻き込まれたこともあります。そこはそれ、零戦を設計したチームが作った飛行機だと思えば、安心して乗っておられました。

YS11は就航から退役まで、一度も大きな事故を起こしたことはありませんでしたね。

ご冥福をお祈り致します。

レッドバロンさん、こんばんは。いつもありがとうございます。

東條家は元は能楽を受け継ぐ家だったと記憶していますが、ドイツ帰りの俊英・英教中将に、事務処理能力と陛下への忠誠心では特筆すべきものがあった英機大将、そして亡くなられた輝雄氏と、才能の継承というのはあるのでしょうね。東條大将のその能力がああいう形で歴史に表れたのは日本国内外にも大将本人にとっても不幸なことでした。大将は自他の言動を最大洩らさず手帳に筆記しておき、他者が矛盾する言動をすれば即時そのことに言及して反論を封じてしまう、という話を聞きましたが、上官としても同僚としても恐い存在だったと思います。天才・石原莞爾中将がそんな東條を馬鹿にしていたのはご承知のとおりですが、それは過小評価だったでしょう。

高知県は残念ながら一度も訪ねたことがありません。周りを山脈と海で囲まれて「孤立」していた為独自の風土があると聞きます。坂本龍馬は言うまでもなく、土御門上皇が「父院が遠国に遷されるのに自分ひとり都で安閑としているのは忍びない」とご自身で望まれてお遷りになった地でもありますね。都、そして御一家との永訣を覚悟してのお遷りだったことでしょう。このことはもっと日本史で言及されて良いと思います。

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