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教会の平和懇談会の発表内容です   土井健司『キリスト教は戦争好きか』(朝日新聞出版)を読んで

「あなたは殺してはならない」「この、『殺してはならない』の『殺す』という語が・・・戦争による殺りく(特に神のための戦い)、は除外されているととるのは誤りです。生命は神が与え、またお取りになるのであって、人間はいかなる理由でもそこへ越境してはならないのです。旧約聖書の共同体から、新約の共同体への転回においてはなおのことであります。」(永井春子『十戒と祈りの断想』)

「キリスト者は、戦争に参加することができないというのがわたし自身の確信である。・・・われわれの敵を愛さなければならないと言うのは、イエスの教えである。そしてだれも、人を殺すことで、その人を愛することはできない。・・・戦争をしなければ、最上の価値あるものが、またキリスト教さえ破滅されてしまうという論議がある。しかしこの論議の中には、よい物を維持するためには悪いことを行っても正しいのだという議論を含んでいる。また、もしわれわれが、キリスト教が神からであると信じるなら、もし人々がほんとうにキリスト者なら、キリスト教は、もし、それがひどく苦しまなければならなくとも、究極的には、また最後には勝利を得る。それは破滅できるものではないからであると、われわれもまた信ずべきである」(ウィリアム・バークレー著・大島良雄訳『新しい人生の創造 〈十戒〉と〈山上の教え〉』)

私は今まで幾つかの著作や、大学時代の親しい人々、またインターネットを通じて「キリスト教やイスラム教といった一神教は自分たちの信仰や主義を武力、暴力を用いてでも他者に強要する『戦争好き』な宗教である。それに比べて我国の神道や仏教はなんでも受け容れる『寛容な』宗教である」という主張に何度か触れたことがあります。それに抗弁し、主イエス・キリストは平和を教え、勧め、命ずる御方であると反論したこともあります。今回の平和懇談会の参考書『キリスト教は戦争好きか』では中世の十字軍を例に挙げ、それが是認できるものではないと説明しています。私は、その他にも近世以降の欧州諸国によるアジア、アフリカ、南北アメリカ、オーストラリアなどへの侵略を思い浮かべます。そこで多くのキリスト教に好意を抱いていない人々は言います、「キリスト教の宣教師は侵略の尖兵だった。あらゆる残虐がキリスト教徒によって行われた」と。しかし、大規模な侵略を行ったのは何もキリスト教徒だけではないのは歴史が実証しています。モンゴル帝国や、つい70年近く前の我国など、多神教徒もあらゆる形で残虐行為を行っています。歴史上の出来事だけでキリスト教は戦争好きと即断はできないと考えます。
但し、旧約聖書では神が古代イスラエル人に戦争を命じているのはどう解釈すれば良いのか。これは私を今に至るまで悩ませ、苦しませている問題です。史学的に見てヨシュア記で見るような「滅ぼし尽くす」戦争が実際に古代イスラエル人によって行われたとは言えないという説明は、事実に即してみれば「戦争好き」ではない証明にはなりますが、そのような神の命令が聖書という形で伝えられていることをどう捉えればいいのでしょうか。歴史的事実ではなく、またそれらの神の言葉を伝える聖書の成立もはるか後のユダ王国時代のものであるならば、私は「滅ぼし尽くせ」との神の御言は古代イスラエル人の信仰の反映だと見るほかありません。そう考えざるを得ないのです。
私がもし、遥か古代、ヘブライ人のカナン進入の時代に生きていれば、アブラハムがソドムとゴモラの人々の為に必死で神に執り成したようにしたいと今も思っております。それでも神が「滅ぼし尽くせ」と命ぜられるなら、神は私たちの心の奥底の奥底まで見抜かれる御方だからこそ「できません、私にはできません」と叫びます。そう叫ばざるを得ないのです。
実際には起こってはいなかったと思われる出来事が、史実であり且つ神の御命令によるものであると旧約聖書に記されているという事実は、聖書をそのまま文字のまま起こった出来事としてその全てを受容するのではなく、旧新約聖書全体を通して何が私たちに呼びかけられているかを考えて読まねばならないのだと教えてくれるように思えます。それは聖書の全ての記述を神の御言そのままという立場には或いは反するかもしれません。しかし、聖書が示しているのが十字架上の主イエス・キリストであり、神の人類に対する愛であると見るならば、聖書を上記のように読みつつキリスト者であり続けることは可能であると信じます。
 神が人となり給うて人類にあるべき道を示して下さったのが主イエス・キリストであるならば、古代イスラエルの信仰を踏まえつつも、私たちが仰ぐべきは主イエス・キリストであることは確かでありましょう。
 『キリスト教は戦争好きか』では中世のアウグスティヌスやトマス・アクィナスを踏まえてキリスト教神学での「戦争もやむを得ない」という主張が紹介されています。絶えざる異民族との戦争、皇帝や国王、諸侯たちの戦争、といった中では苦渋の妥協的主張であったかもしれません。宗教改革者ルターは、「大きな不幸を防止する小さな不幸」と戦争を位置付けました(『軍人もまた祝福された階級に属し得るか』岩波文庫)。ルターのこの著作を翻訳した吉村善夫氏は「偉大なキリスト教神学者で絶対的非戦論を唱えた者は殆どいない」とまで言い切ります。しかし、今の21世紀の人類も絶えざる戦争の中に生きています。我国は幸いにして太平洋戦争終結後67年間他国との戦争を経験せずに済みましたが、今後もそれが続くとは限りません。20世紀と21世紀を跨って生きた私にとって圧倒的に心に響くのは、戦争を「小さな不幸」と言うルターより、戦争否定に生きた内村鑑三や矢内原忠雄といった人々なのです。この人々の珠玉の言葉を紹介していけばきりがないのですが、

「良心の詰責を感ずることなくして同胞の屠殺を賛成する者は、その名をわが友人名簿の中に留めおくべきではありません・・・酒を飲んでは悪い、しかし人を殺してもよろしい、姦淫を犯しては悪い、しかし血を流してもよろしい、孤児はあわれむべしである、しかし幾万の孤児を作りてもよろしいと。世に多くの矛盾はありまするが、しかし慈善家の主戦論のごときはありません。」(内村鑑三)
 「『平和の為の戦争』『戦争を無くする為の戦争』によって、平和の基礎は造られるであろうか。断じて否である。過ぐる世界大戦(第一次)も亦かかる美名の下に行われたのであるが、之によって戦争が消滅せざるのみならず、却って大規模なる新戦争の準備が為されつつあるのである。・・・戦争是認の為に平和の名を用いる罪悪は、単なる戦争以上に一層深刻であると言わねばならない。・・・敵をも愛する愛は、敵の罪をわが身に負い、敵の罪の故に我が苦しむことによってのみ成し遂げられる。かかる道はただキリストの十字架にあるのみであり、人は十字架を信じて始めて敵をも愛する愛の霊を与えられる。」(矢内原忠雄)

 私は、キリスト教の「敵を愛せよ」を信じる者です。それが平和をもたらす道であると。また同時に、「戦争を起こさない為の抑止力」としての自衛隊を是認する者でもあります。他国に日本に侵攻する意図を起こさせない為の自衛力は肯定します。しかし、それを一度でも現実に用いるなら、その時我国は既に敗れたと言いきります。ある戦争史研究家は「戦争を起こす事自体が国家の敗北である」と語りました。「防衛力を現実に用いない」ようにするには基督者のひとりひとりが「地の塩、世の光」となって他国、他民族、または同国民を愛し続けるほかないと思うものです。 

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歴史・宗教」カテゴリの記事

コメント

享安山人さん、今晩は。
「キリスト教は戦争が好きか?」という問いかけ自体が余りに幼稚です。これに反論する側にも、戦争は戦いを好む者がいるから始まる?という戦後日本的というか、怖ろしく単純素朴な思い込みがあっての議論に思えます。

いつぞや小沢一郎氏が高野山で、一神教は好戦的な宗教だけれど、仏教は誰でも死ねば佛になる平和的な宗教だとか言ってましたが、空海がいつそんなことを教えたか?こんな手前勝手な俗流仏教論?に、高野山当局が反論しない方がおかしいと思って聞きました。

内村鑑三の信念も含めて、キリスト者と軍務の関係についてお伺いしようと思ったのですが、(というのは、キリスト教国家である欧米において、)徴兵制の有無にかかわらず、イタリア憲法はじめ、国民の防衛義務が存在しない社会はないと思うからです。)

そうこうしている内に、シリアで山本美香さんが亡くなりました。常に戦乱の一線にある、凛々しくも優しげな女性ジャーナリストでした。いつも行動を共にしていたジャパンプレスの佐藤和孝氏は、彼女を守れなかった十字架をおそらくは一生背負って行くことになるでしょう…。

現代の戦乱は先の大戦のように大国間の正面衝突という姿ではなく、大国がコントロールし難い地域での内戦とテロの繰り返しという形態を取っています。両派の間に割って入り、互いの兵力を分離するような強力な国際警察活動が望まれる所以です。自らは安全な場所にいて、いつでも「戦争反対」では、毎日のように無辜の市民が殺傷されているのを、ただ見殺しにしていだけでは?という疑問を拭えないです。

山本さんの尊い犠牲は私達にそれを教えてくれているように思えてなりません。享安山人さんも、彼女の美しい魂に安らぎのあることを、どうか、祈って上げて下さい。

レッドバロンさん、こんばんは。またしてもお返事が遅れてしまい、申し訳ありません。この所、というか延々と酷暑が続いていますが、お元気ですか。

戦争即殺人、よって悪、という単純素朴な考えが私の中にあるのは認めざるを得ない所です。崇高な愛国心も抑圧された民衆を解放しようという思いも、戦争という手段を採ればそれは他の人間、それも当人には何の怨讐もない人間を殺戮することに繋がってしまうのですから。

内村鑑三は御承知の通り日露戦争に猛反対しましたが、その主張に影響された人々が兵役を拒絶しようとすると兵役に応じるように勧めたそうです。その見解については別に本文で紹介したいと思います。「おそらく内村は号泣しつつこれを書いたのではないか」と思われる凄絶な、今のキリスト者にも激しく訴えるところを持つ文章です。(既にご承知であれば済みませんが、このブログで紹介することも意義あるかと思います)

私は極めて怯惰で己の生命に対する執着が極めて強い人間です。しかし、キリスト者の非戦論が己を安全地帯に置いて只管無事なことだけに汲々とするのでは何ら「地の塩、世の光」ではないでしょう。嘗てボンフェッファー牧師はヒトラー暗殺計画に加担した時、親友に「剣を取るものは剣によって滅びる」という主イエス・キリストの御言をどう思うのだ、と聞かれて「それを実証するために」と答えたそうです。ヒトラーを暗殺することで、自分も剣を取ることになり、その結果滅びるのだと。相手がヒトラーといえどもそれは殺人です。しかし一切の良心的勧告が無意味で、殺人という悪を犯さなければユダヤ人その他の大虐殺を阻止できない、という極限状況でボンフェッファーは十戒を犯す道を選びました。神による最終的な赦しを信じることからだったとも思います。

山本美香さんの最後の取材映像を見ました。戦場における死が全く突然訪れることを知らしめるものでした。街中、陽光の下での突然の死。主なる神が山本さんの魂を天上で憩わしめるように今祈るものです。

享安山人さん、ご多忙のところ、レス有難うございます。こちらは元気でやっておりますが、毎日大変な暑さで、いい加減うんざりしております。東京にも大阪にも、早く新涼の風が吹いてほしいですね。

「平和」という言葉は戦後日本では とりわけ手垢にまみれ、党派的に利用され、卑怯と怠惰の言い訳として使われて、胡散臭い言葉の代名詞となってしまいました。

今では、広島、長崎、沖縄などの地名さえ、聞いた途端にテレビを消すほどで。

中学生の時に、広島での原水禁大会をめぐり、代議員が拳を振り上げ、議場で罵り合っているのを見て以来の、一貫した嫌悪感です。当時はニュース映画でしたけど、その主導権争いの理由が「戦争勢力」の核には反対だけど「平和勢力」のそれは肯定すべき云々…。もはや、怒る元気さえなくなるレベルの話でした。

享安山人さんご紹介のホンフェッファー牧師と内村鑑三のお話は ぎりぎりまで詰め切った論理と思考、また祈りから出てきた言葉でしょうね。正直、感嘆致しました。内村の論考は存じ上げませんでしたが、一般には俗耳に入りやすい?「非戦論」しか伝えられていない事を残念に思います。

ヒットラー暗殺計画の実行者であるフォン・シュタウフェンベルク大佐はカトリックの人ですが、頭脳明晰にして勇敢、おまけに美貌と、三拍子揃った立派な軍人でした。
戦後、息子さんが西ドイツ陸軍の中将になっております。お父上より偉くなられたのですね。

戦後のドイツ国家は、シュタウフェンベルク大佐やホンフェッファー牧師らの行動に歴史の正統性を求め、その高貴な精神の上に再建されたと言っても、けっして過言ではないと思います。

また、内村の論考など、整理してコメントさせて頂きます。有難うございました。

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