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古書店で韓愈『元和聖徳詩』を立ち読みして感じた嫌悪感

今日は私は仕事休みのため、書店めぐりをして愉しんできたのですが
古書店で韓愈の詩集を立ち読みしていて、思わず嫌悪感を覚えてしまいました。

韓愈といえば中唐の文人で、硬骨気概の官僚でもありました。
そんな人に何故嫌悪感を、かと言えばその『元和聖徳詩』なのです。

地方の反乱を平定した憲宗皇帝の徳を頌えているのですが
帝徳を称えるのはいい、しかし、その称え方がどうにも嫌でした。

反乱を起こした劉某は長安に連行されて刑死します。
その際、中国史の常なのですが彼の妻子眷属皆共に殺されてしまいます。
そのさまをおそらく韓愈は実見していたのでしょう。
描写が実に真に迫っている上に、それを「いい気味だ、逆賊ども」と
言わんばかりに詩を綴っているのですよね。
赤子が縄を一旦解かれて背を丸くした、その瞬間に
刃が振り下ろされた、血塗れの遺体が累々としているなか
茫然自失の劉某が最後に処刑された、と。

天子たる者の徳は仁愛、寛恕に尽きる、というのが私の持論なので
酸鼻を極めた処刑場面を記すことで帝徳を称えるというのが
天子への媚び諂いと韓愈自身の仁愛の欠如を示しているようで
なんとも嫌な思いがしました。

実は同じ思いは我国の大逆事件についても抱いています。
判決が大審院で下った後、明治の陛下は
慰労のために判事団と検事団に葡萄酒を下賜されるのですが
弁護団にはそれが無かったようなのです。

減刑が「犯人」の半数にしか及ばなかったことと併せて
陛下の為に深く惜しむことであります。

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歴史・宗教」カテゴリの記事

コメント

韓愈の感覚は(日本人としては)論外にしても、アチラの宮廷では名君と謳われる人にしてこれですからね。

南北朝の頃の、黄昏列伝に至っては、ただ、ただ意味のない大量殺戮の繰り返しです。殺人を快楽にしているとしか考えられない君主が出てきます。このレベルになると、権力闘争という理由があって殺されるのは、まだマシな方だと思う他ありません。

読むのが辛いですが、異朝の歴史は、人間性に対する島国的な甘い期待や幻想を一瞬のうちに粉砕してくれます。

「大逆事件」における判事・検事に対する葡萄酒の下賜、知りませんでしたが、戦前の裁判所では、判事・検事が正面の雛壇に並んで、被告・弁護人が相対するという法廷スタイルでした。

(今は中央に裁判官・左右に検察・弁護側が対峙します)これに象徴されるように、戦前は「官」対「民」の刑事訴訟という考え方が濃厚でありました。

判事・検事は「官」に属するゆえに、基準に基づき宮内省から自動的に?葡萄酒が配られたということではないでしょうか。官吏に対する酒や煙草の下賜まで、明治帝の裁可を仰いでいたとは思えませんが、後味の悪い話ではありますね。

問題の「爆裂弾」で思い出しましたが、牧野伸貴夫人の峰子さんが亡くなった時に、吉田健一氏が、「ロシア大公の血を見た瞳も、今、その光を失ってゆく」と書かれていました。夫人はセルゲイ大公の暗殺事件に遭遇したのでしょうか?

まだ静かな雪の降った頃の東京を覚えている人はほとんど居なくなり、明治・大正はもちろん、「昭和」の記憶も、遠くなりました。ダイジェスト的な知識はネットでなんぼでも検索出来ますが、歴史は「臨場感」を伴わないと、人間の物語ではなくなってしまいますね。

訂正

黄昏→昏君 です。失礼致しました。

レッドバロンさん、こんばんは。

中国南北朝の頃は目を覆いたくなるような残虐な天子、否、匹夫どもの所業で溢れ返っていますね・・・。学生時代に漢籍に取り組もうと偶然安値で売られていた『北斉書』を買ったのですが、文宣帝や武成帝、後主といった連中のやることといったらもうお話になりませんでした。かくも嗜虐的な連中が続出した時代に生まれた心ある人々には、生きること自体が苦痛だったでしょう。

葡萄酒の話は出典を忘れてしまったのですが、大逆事件に関する史書に載っていました。「宮中から届けられた」とありました。単なる事務的な慰労だろうと思いたいのですが。どうも明治の陛下については、この頃の大事件についての御胸中を記した史書が余り無いようです。韓国併合や大逆事件についてどう思っておられたのか。仄聞する所では『明治天皇紀』でもこの頃は事務的な記述が続くとか。

ロマノフ朝のセルゲイ大公の件では、大公妃の深い深い愛が強烈に刻み込まれています。夫を暗殺した犯人を赦そうと努め、最後にボリシェヴィキどもの手にかかって廃坑の底に投げ込まれて亡くなる際は、同じく投げ込まれたほかの皇族の手当てをしながら聖歌を唱えていたと聞きます。このような慈愛に満ちた方を「搾取階級」と一刀両断して惨殺したボリシェヴィキの罪深さは計り知れないものがありますね。

「臨場感」せめて史書を読む際には、できるだけ当時の人々に感情移入すべく努めたいと思っております。今は昭和の陛下の御顔すら知らないという若者も増えているとか。

享安山人さん、お暑うございます。お元気ですか?

同じ名前は南北朝でも、こちらは大分救いがありますね。北朝一代、光厳天皇は 上皇となられてから出家され、自らが関わった戦乱を深く悔い、全国行脚の余生を過ごされています。

若き日には、近江は番場の地にて、終わりを覚った六波羅方(北条家)四百三十二人が悉く自害する修羅場を目の当たりにされ、その後は南朝により吉野に幽閉されていますが、日本の長い歴史の中でも、これほど波乱万丈の人生を送られた天皇さんは珍しいと思います。

晩年まで、わずか伴一人を連れての寂しい行脚の旅を続けられました。激戦地の金剛山にて戦死者の菩提を弔い、また吉野に赴かれて、後村上天皇と丸一日語り合ったこともおありになったとか。

南北朝の争乱について、光厳天皇に主導的な責任など全く無きに等しいと思われますが、単に、そこに居合わせたというだけでは済まない、深く宗教倫理的な「責任」を光厳院がお感じになっていたことは、その後の生き方から明らかだと思います。

毎度、大河ドラマで似たような英雄豪傑の表面的な活躍を見るだけでは、日本の歴史が勿体なさ過ぎます。

畏れながら、光厳院の行脚は、戦後の昭和天皇の巡幸とも、歴史の深い記憶の層で結びついているのではないかと、愚考する次第です。

梅雨の中日というには、余りの猛暑続きの毎日です。ご自愛下さいませ。

レッドバロンさん、こんばんは。今日は本当に暑い一日でした。教会の日曜礼拝の行き帰りに何度もお茶や珈琲を口にしました。お身体をどうかお大事に。

光厳天皇の真摯な御生涯は、実は私もかねてより敬服する所でした。二度、法皇となられて後の御修行の場であり、終焉の地でもある常照皇寺を訪ねたこともあります。陵の前ではしばし瞑目して法皇、そして同じ地に眠っておいでの室町時代の後花園天皇の魂のためにお祈り致しました。光厳天皇の叔父・花園天皇の、『誡太子書』に代表される生真面目も生真面目な、己に厳しい倫理的姿勢が、甥君に深い影響を与えたのでしょうね。光厳天皇は生涯花園天皇の御遺骨を懐中にされていたそうです。そのような姿勢を光厳天皇も、応仁の乱の際の後花園天皇も受け継がれ、それは昭和天皇や今上陛下にまで確かに伝えられていると考えます。

歴代天皇の民への深い深い思い遣りを私たち日本人ひとりひとりが歴史を知る中で心に刻んでいければよいのですが。他者への思い遣りをひとりひとりが自覚的に歴史から学んでいけば、ほんの少しかもしれませんが日本社会も良い方向へ向かえるでしょう。

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