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平成の日本でキリスト教を信仰するということ

宗教とは非合理なものです。
宗教をあくまで合理的に捉えようとしたら
それは道徳、人生訓の段階に留まるでしょう。

私は個々の人間の差異などおよそ超越した絶対的な存在を前提にせずに
「万人の平等、自由」などを説くほうがよほど理解しがたいのですが
そのような考えはおそらく圧倒的少数派でありましょう。

絶対的な神を抜きにして「すべての人は無条件に生まれながら平等である」
というのは実は恐るべき思想では、と最近思ったりします。
個々の現実の人間にはあらゆる面で差異があるのですから。
アメリカ独立宣言には「万人は創造主によって平等に造られ」とあります。
「創造主」あってこその万人平等なのです。

道徳の実践にしても、男女の貞潔などを説くと
嘲笑罵倒されるのが落ちの平成日本社会。

内村鑑三や矢内原忠雄は幾度もこの日本でキリスト者として生きることは
社会から嘲笑される覚悟が必要だと説いていますが
弱い人間の享安山人はその覚悟を与えてくれるよう
神さまに祈ることが必要ですね。

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歴史・宗教」カテゴリの記事

コメント

真摯に抑圧されている人々のために活動されている人権活動家の方々を否定するのでは断じてありません。しかし、「なぜ万人は平等なのか、あらゆる差異のある人間がなぜ生まれながらに平等なのか」ということを絶対的存在を抜きにしていけば、「現実の差異」の前に理想は敗れてしまうのではないか、と思うのです。

民族や社会を統合する機能面から、宗教を合理的に説明しようとする試みは、随分なされてきました。しかし、どうも、うまく行ってるとはお世辞にも言えませんね。

社会学的なアプローチを無駄とは思いませんが、やはり一面の解釈でしかないようです。音楽や芸術を言葉だけで「説明」しようというのと、似てますね。

「平等主義」ぐらい、日本で猖獗を極めている思想はありません。福田恒在は晩年、日本は平等主義で滅びると言ってました。享安山人さんがアメリカの独立宣言を引用されましたけれど、英国保守主義の父エドマンド・パークは、それ故に、アメリカの独立革命を支持しました。一方において、フランス革命に対しては徹底的に反対し、ジャコバンの徒を排除するまで、一切の妥協の余地はないと。

フランス革命は無神論から理神論に行き着き、革命政権は「理性」を神殿に祭りました。譬えではなく、国費を使ってのリアルな話です。「理性」神の前での、人間の平等なのですね。

これは「宗教戦争」の形を取るゆえに簡単には終わらない、革命の狂熱は三世代に渡りフランスを覆うだろう、というパークの予言は的中しました。
1789年のバスティーユの襲撃に始まり、1871年5月28日にパリ・コミューンの最後のバリケードが撤去されるまで、一世紀に渡り、フランス国民は己の血で溺れ死ぬほどの惨劇を味わいました。

人間を理性で全て制御できるという、これより危険なカルトはありません。一世紀遅れで、アジアにはポル・ポトという平等主義の極めつけが出ましたが、まだ、「信者」は、懲りてないようですね。

レッドバロンさん、こんばんは。

今の日本での平等主義には、欧米での大前提である「創造主」の存在がすっぱり抜け落ちて、人間があらゆる差異にもかかわらず無条件に平等で対等であるという極めて危険な一面があると思っております。また、一般国民の私たちが「主権在民」の故に天皇陛下より偉いのだ、などという倒錯した価値観も蔓延しています。私はキリスト教徒ですので、矢内原忠雄が必死に日本に民主主義が真に定着するにはキリスト教を受け容れることがどうしても必要だと叫び続けたのは、当たっていたかと思います。そして日本が立憲君主制国家であり、天皇が君臨される国家なのだと国民ひとりひとりが自覚していくことも。時代錯誤と言われても、一神教のバックボーンもないまま日本から皇室を取り除けば我国は何の統一理念もない巨大な雑居地と化すと確信しています。

『フランス革命の省察』は恥ずかしながら何度も取り組んでは挫折しております。みすず書房版と岩波文庫版を持っているのですが。フランス革命からパリ・コミューンの破局に至るまでの流血の惨事は、私が「共和制」というものに深い深い不信感を抱く大きな要因になっております。また、そこまでの血を流しての価値が「共和制」にあるのかと。どれだけの有為の人々が殺戮を繰り返したことか。

世界には100以上の共和国がありますが、万民平等を実現できた共和制国家は皆無でありましょう。そしてこれからも。

近代国家を形成するに当たって、明治政府の当事者は直感的に、日本社会における「神」の欠落を理解していたと思います。

それを埋めるべく 国民統合の象徴として、皇室には辛いお役を担って頂いたのが実態かと。言わば「天皇」の前の国民の平等を実現しようとしたのですね。

ウチの叔母は紀元二千六百年の式典で、高松宮様が「臣何々」と奏上されるのを聴いて、そうか、宮様でも陛下の御前では一人の臣下なのだと、改めて思い知ったと言っておりました。

「国民主権」に人格はありません。自分に都合の良い意見だけを「国民の総意」と称して政府に物申す実力者を、私達は最近も見ています。

かつては東條首相でさえ、政府・大本営の方針と大御心の間に乖離があることに、散々に悩み苦しみました。開戦の前の晩に、東條首相が自宅で一人号泣していたのは有名なエピソードです。

かえって「今」なら、何の悩みもありませんでしょう。当時の「世論」はもう圧倒的に米英伐つべしでありました。開戦をためらう東條首相の許には、毎日、山のように抗議文や脅迫文、辞任や自決を求める手紙が舞い込んでいたそうです。

フランスのカトリックの詩人、ヴィリエ・ド・リラダンはある晩、友人達との会合の場に遅れてやって来て、今、そこで、フランス語で一番美しい言葉を聞いたと、感動の面持ちで、語ったそうです。
それは「哀れな盲人にお情けを、お願いでございます!」

という、盲の乞食が発していた哀願の文句でありました。

リラダンは後に、この文句を永遠のリフレインのように使い、殊宝の短編に纏めています。

パークの政治思想もそうですが、ボードレールやマラルメ・リラダンのようなフランス高踏派の、近代合理主義に対する根底的な懐疑と嫌悪の思想は、日本ではほとんど紹介されません。

彼らはブルジョアを嫉妬していたのではなく、軽蔑していたのですが、そういうのは、日本では流行らないかも?

ちなみに、リラダンのご先祖は、ロードス島攻防戦を戦った、かの地の騎士団長でした。 塩野さんの作品にも出てきます。

レッドバロンさん、こんばんは。天皇の前の万人平等は、皇室の方々には苛酷な責務を負って頂くことになりますが、今後の日本においてもそれでいくしかない選択だと思っております。

紀元2600年式典での高松宮殿下の上奏は全国にラジオ放送された為、レッドバロンさんの叔母さまと同じ感想を抱く人は多かったようですね。半藤一利氏も同様の感想を抱いたと記憶しています。

東條大将は陛下の御意志に忠実であろうと努めたのは立派でしたが、中国大陸からの撤兵にあくまで否定的であったことや、太平洋戦争突入後の講和について真剣に模索しなかったこと、終戦にも否定的で「原子爆弾に腰を抜かし」などと述懐していたことは擁護できない所かと思います。ただ、既に終戦から67年が経ち、東條大将の報いられなかった努力に目を向け、その魂の安息を祈ることは許されると思います。残念ながら現在の日本のキリスト教界では、彼ら「戦争犯罪人」個々の安息を祈ることすら忘れ果てて彼らをひたすら裁くことのみに熱心な向きもあります。戦時下の苛酷なキリスト教弾圧を思えばこそ、当時の為政者のために祈らねばならないのです。当時を直に生きた人々が複雑な思いを抱くのは已むを得ないことですが、戦後生まれのキリスト教徒が彼らのために祈るのを拒む理由はありません。

残念ながら浅学のため、フランス高踏派についての知識は殆どありません。詩人も名前のみ知っている程度です。大正時代に日本に駐在したフランス大使クローデルが日本への深い理解を示していたと思いますが、彼もまたその系譜なのでしょうか。

はじめまして。うたのすけと申します。
小生、大正天皇につて検索していましたら、ここに漂着し、この記事を読ませていただきました。
貴兄の仰る「絶対的な神」を抜きにして万人平等はありえない、というご意見に深く賛同します。
絶対的な神は、われわれ人間種が生き延びるために、必要なものだと思っています。それは、たとえて言えば、ライオンの牙や爪、象の鼻であります。肉体的に最も弱く、それにもかかわらずエゴイズムだけは絶倫の人間種が生き延びるために、自然(神)によって人間種に先天的に与えられたものだと考えます。カントの超越的観念といってもいいし、DNAに埋め込まれた傾向といってもいいものです。
この神なしに、この地上で絶対的なものを標榜すると、力にはなりますが、きっと誤ることは、歴史を振り返っても、われわれの日常生活をみても、明らかですね。
われわれが、日ごろ迷った時に、この神(小生に言わせれば、絶対善の観念)に問い合わせをしなければなりませんが、ではそれは何だと問われれば、一般的な言葉では説明ができません、その時その時の行為に現われるものですから。
有名なリンカーンの演説や、ケネディの就任演説に〈神〉が援用されていますが、多数に関与する、つまり虚偽が必須(と小生には思えます)の政治という場面で、〈神〉を持ち出すアメリカの困難さをいつも思います。

享安山人さん、こんにちは。

私も東條大将が優れた指導者だとは夢にも思いませんけれども、「神なき国」の大衆的知識人が、まるで神のごとき立場から歴史上の人物を断罪するのは、傲慢以外の何者でもないと考えております。「神なき国」は皆が易々と神になる?大愚行が起こりやすいです。

ポール・クローデルは若い頃、マラルメのサロン(火曜会)に出入りしてました。当然、前述の詩人・作家らの影響を受けていたと思います。それと、ロダンの恋人だった姉君がジャポニズムに非常に熱心だったのですね。1898年上海駐在時代に日本を1ヶ月旅行しています。その後は、ご存知の通り、1921年から27年にかけて、駐日大使を勤めました。

クローデルは駐日大使になりたくて外交官になった人で。大使時代は、ことに文楽、歌舞伎、能を熱心に観劇していますね。(クローデルは優れた劇作家でもありました。)これは、日仏関係に止まらず、世界文明レベルで、まことに幸福な体験となりました。

先年、来日したド・ヴィルバン首相は 東京に到る前に、まず大宰府を訪問しています。おそらくは、クローデルの「日本日記」に大宰府の記載が多くあるためと思います。
考えてみれば、菅原道真公はフランスの官僚政治家の「タイプ」で、ありますな。

うたのすけさん、初めまして。こんばんは。お返事が遅れたこと、お詫びします。

大正天皇についてお調べだったのですか。真に拙いものながら、大正の陛下について以前文を綴ったことがあります。繊細で優しい心をお持ちだった陛下に対する誤解が多くあることが残念でなりません。

私はプロテスタント信徒(「日本キリスト教会」という教会に属する者です)ですので、信仰のあり方について立場は異なれど無教会主義の内村鑑三や矢内原忠雄が日本国民に絶対神の存在を信ずる必要性を叫び続けたことが少しは分かるように思えます。あらゆる差異のある人間が平等である為には、どうしても個々の人間を超越した存在が求められます。但し、キリスト教徒の私としては、人間が必要とするから絶対神がいますのではなく、神がいますからこそ、我ら人間が存在し得る、と信じております。

私は神無くしては何一つ善なるものの無い人間ですので、一層自分自身の個人的経験から神のいますことの尊さを日々感じています。

我国では戦後は「人権」が米国での神の「代用」となっているかと思うのですが、やはり真剣に考えれば考えるほど「なぜ全ての人間が平等なのか」と問い詰めたくなります。その前提としての絶対的存在について、私を含めて日本人がもっともっと深刻に考えてもいいかと思うのです。

またお読み下されば幸いです。

レッドバロンさん、こんばんは。いつもありがとうございます。お返事が遅れたこと、申し訳ありません。

容易に人を審いてしまうことは、他ならぬ私が何度も何度も犯し続けている過ちであります。身の周りの人々だけでなく、特に歴史上の人物についてはそうです。東條首相は個人としては極めて質朴な生活を送ったと聞きます。自宅の建て直しも生真面目に配給資材のみを、回数を分けてのその到着を待って長い月日をかけてやっていたとか。その権勢を振るえばあっという間に大豪邸を建てられたでしょうに。歴史上の役割を厳しく評価しつつも、その魂の安息を祈ることはキリスト者としての責務であるとも考えております。(私の教会の源流の改革派では、嘗て死者の安息を祈ることすら「偶像崇拝だ」と禁じたこともありました。しかしある牧師は言われています、「祈ってならない祈りなどない」と。また植村正久は死者のための祈りの大切さを強調した人物でありました)

クローデル大使についてのご教示、ありがとうございます。邦訳でですがその文章に接して「ここまで日本人に深く共感してくれた人士が大正時代にいたのか」と感激したことがあります。菅原道真が醍醐天皇の勅命で流罪になっても「恩賜の御衣」への感激を忘れなかったことは、日本人にとって良き範でありましょう。

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