最近のトラックバック

« 遊行寺たまさん作『+C sword and cornett』第7巻 発売です | トップページ | 祈り、働け 書物雑感 »

私の信仰 バッハの『マタイ受難曲』を聴いて

今日は教会での礼拝と聖歌隊の練習の後に
バッハの大曲『マタイ受難曲』を全曲聴く機会がありました。

イエス・キリストがイスカリオテのユダに裏切られて
ユダヤ社会の指導者達とローマ帝国によって十字架に掛けられるまでを
2時間半の演奏で描く名曲中の名曲です。

その中の歌詞の一つにこのようなものがあります。

「耐え忍ぼう!不実な舌が私を刺すときに。
身に覚えなく辱めと嘲りを受けようとも」

インターネットネット社会でキリスト教信仰について他人から嘲りを受けただけで
心の甚だ騒ぐ私ですが、往時の内村鑑三や矢内原忠雄などは
どれだけの苦難や屈辱を経験したかと思うと、今日のバッハの曲からも
あらためて教えられることがありました。

主イエス・キリストを裏切ったユダの後悔をバッハはこう描いています。

「私のイエスを返してくれ!
戻るがいい、殺しの報酬である金を、
戻ってきた放蕩息子はお前らの
足もとに投げ出した!」

「滅びに至った」と述べられることの多い
イエスを裏切ったイスカリオテのユダですが
故・遠藤周作は『イエスの生涯』で
「ユダもまた救われたと思う」と言い切りました。
そしてカール・バルトもまた。
イエスはユダも含めて人間の一切の悲惨さを一身に担い給うたのだと。
私もまたそう希望を持つ者です。

イエスによる「放蕩息子」のたとえは有名ですが
父親(神)から離れて我欲の限りを尽くした放蕩息子は
最後は父に立ち返りまた父の元に迎え入れられるのです。

また、イギリスの神学者バークレーの著作から
「時には他者と対立することがあっても正しいことを
枉げてはならない」とも学びました。
「相手を愛することと、相手からの不義をただ卑屈に受け容れることは全く別個のもの。
寛容、受苦と不義への迎合とは違うのだと。」

良書名曲に恵まれたことを感謝しています。

« 遊行寺たまさん作『+C sword and cornett』第7巻 発売です | トップページ | 祈り、働け 書物雑感 »

歴史・宗教」カテゴリの記事

コメント

「マタイ受難曲」は特別な音楽です。クリスチャンでない私がこういうのも変ですが、限りなく宗教体験に近いだろうと思います。

驢馬に乗ったイエスのエルサレム入城を「ホサナ!」と歓呼して迎える民衆と、「十字架に掛けよ!」といきり立つ人々、さらに最後に「まことにあの方は神の子であった… 」という深い悔恨をする人々。

これは勿論、同じ合唱団が歌ってますけど、あれは同じ民衆の姿でもあるのですね。劇的な構成としても、パーフェクトで、ほとんど畏怖の念を感じさせます。

「マタイ受難曲」はヨーロッパ文明の最も高きものの一つで、いや、さらにその中でも、まったく別格な存在かもしれません。

レッドバロンさん、こんばんは。今までマタイ受難曲は何度も聴いていましたが、単純に音楽と合唱の迫力を楽しむばかりで、一つ一つの歌詞に真剣に一人のキリスト教徒として向き合うのは今回が初めてのことでした。キリスト教徒でないレッドバロンさんに「限りなく宗教体験に近い」とまで言わしめるのですから、あらためてその凄さを思わされます。

十字架に付けろ!と叫ぶ群衆の姿はただちに私自身でもあります。同じ時代のユダヤに生きていれば全く同じように付和雷同したでありましょう。また、日々罪を重ねる私自身。そのような我々の罪を一身に担って十字架上の苦しみを耐え忍ばれたイエスの大いなる愛をバッハは見事に表現しました。メンデルスゾーンが再発見するまで百年近く歴史の中に埋もれていたのが不思議ですね。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 私の信仰 バッハの『マタイ受難曲』を聴いて:

« 遊行寺たまさん作『+C sword and cornett』第7巻 発売です | トップページ | 祈り、働け 書物雑感 »

2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ