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教会の平和懇談会発表資料 『戦場のキリスト者』

2010年度K教会平和懇談会
「戦時下のキリスト者」-戦場のキリスト者-
2010年8月8日(日)
                               
 私は戦後28年経ってから生まれ、前の戦争については書物と高齢者の体験談と記録映像でしか知らない者です。従って「戦場のキリスト者」といっても実体験者の凄絶な経験を身を以て知ることは出来ず、想像をいくら働かせても頭の中のものでしかない、そういう大きな限界を持つ者ですが、自分なりにずっと考えていたテーマでもあるため、自らこの発題を選んだことを実際に先の戦争を経験された方々に申し上げた上で、この発表を進めていきたいと思います。
 先の戦争(おおむね満洲事変以降1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗北・終戦までの戦争全体を言う。15年戦争のほかに、最近はアジア・太平洋戦争と呼称されることが多いようです)で、私たちの信仰の先達である方々は、キリスト者でありつつ戦場で他国人と敵同士として戦争に加担させられることをどう思っていたのか、というのは自分のずっと考えていたことでした。実際に当時を生き、且つ幸いにもその経験を書物に残して伝えることの出来た方々について紹介してこの問題を考える手がかりにしたいと思います。但し、今回自分が紹介できるのは、ごくごく僅かな数人であります。
 

1.渡辺信夫牧師
まず、戦時下既にキリスト教の信仰を持っていた軍隊経験者について、日本キリスト教会東京告白教会の渡辺信夫牧師の経験をご紹介します。渡辺牧師は学徒出陣で海軍に入り、九州から米軍侵攻前の沖縄に兵員・物資を輸送する船団を護衛する海防艦に乗り組みました。1943年冬の自分の心情について渡辺牧師はこう述べています。

「ぼくの前には戦争がある。死がある。それはカタルシス(浄化)になるのではないか。そこまで行けば、内にわだかまって残っている不純なものは皆清算されて、ぼくは本物の人間、いや本物のキリスト者になれるのではないか」「生死のはざまに立てば、そのとき、神学書を読む目が開けるのではないか」「大陸での日本軍の犯罪の噂は彼の耳にもはいっていた。彼はそれを軍人の個人的道徳性の問題に還元できると解釈した。そして、自分はキリスト者だから不道徳なことはしない。自分が参加することによって、戦争は少しでも道義的になる・・・と考えていた」(『戦争責任と戦後責任』新教出版社)また、次のようにも語っています。「戦争の行なわれている時代の中で、人々はみんな苦しんで生きている。私はその人々と苦しみを共に負わなければならない。苦難を回避しないようにしよう。それがキリスト者としての私の存在理由である」
(『戦争生還者の平和憲法擁護論』東京告白教会ホームページ所載)戦後生まれの私は、渡辺牧師が当時の心境として述べていたこれらの思いに感銘をこそ受けても批判など思いもしないのですが、渡辺牧師自身は自分の上記の思いを

「自分で考えたつもりでいたが、後から見直すと、そう考えるように誘導されていたに過ぎないことに気がつく。つまり、こういう理由付けによって、戦争に批判的な傾向の人を戦争協力者に取り込もうという宣伝が、どれほど意図的であったかは分からないが、キリスト教の内部では行なわれていた。キリスト教の看板を下す人は別として、真面目に信仰の生涯を貫こうとした人は、みなこういう考えに達して割り切った。私もその宣伝に乗った。自分こそこの苦難を担うのだ、と思っていた。しかし、敗戦になって気付いたのだが、私は逃げたわけではないが、比較的楽な道を歩いていた。苦難の道を選ぶなどと言ったのは、全く独りよがりの空論、絵空事であった。」

と厳しく振り返っています。
 渡辺牧師にとって海軍での訓練生活で唯一の楽しみは、外出許可区域内に教会があったことだそうです。「教会がなければ彼の心はすさんだであろう。教会のおかげで、心の慰めがあり、不合理に耐えることもできた。」と。「しかし、それだけでしかなかった。教会は現実逃避の場でしかなかった。そして彼はそれで十分満足していた。」
 海軍少尉になって輸送船団の護衛の任に就いた渡辺牧師は、敵潜水艦に沈められた輸送船の救助に当たります。その時救い上げた瀕死の少年兵に乗組員たちは懸命に人工呼吸を施すのですが、

「Tは瞳孔を調べた。『もう駄目です』といって上官である彼を見た。彼はあわてて目をそらした。万が一助かるかもしれぬ少年を見放すことに同意したくない。だが介抱するものの疲れをこのまま見過ごすことはできない。彼は責任をまぬがれようとした。Tはそれで同意が得られたものと読んで、『もう、やめえ』とOに言う。・・・これが戦争というものだろう・・・しかし、死んで行く人間と、助けようとする人間との前で、責任もとれずにただ見ているだけのお前は、いったい何だ。それは人間か。それがキリスト者か」。
渡辺牧師は繰り返し自分の戦争に関する責任を語ります。キリスト者であると共に「戦場で部下に号令する立場」であった自分の責任についてひたすら語り続けるのです。また、自分の信仰は「死に屈服した信仰」であって、「この世からの逃亡ではなく、復活の主キリストが、今ここに、このわたしに対して、そしてわたしの周囲の世界に対して、支配権を持っておられる、と信じ、かつ証しすること」が復活信仰なのだとも。

2.林市造海軍少尉
渡辺牧師は敗戦を見届けることになりますが、戦争の終わりを見ることができず亡くなった方々も無論数多います。そのひとり、林市造海軍少尉は1943年(昭和18年)京都帝国大学から徴兵され、特攻隊員として1945年(昭和20年)4月12日、沖縄沖で戦死します。林少尉は母への手紙・遺稿集という形でその思いを後世に伝えることができました。キリスト者一家に生まれた林少尉は、キリスト者としての生き方、生きたいという思いと天皇、国家への忠誠心とを両立させようと苦悶します。

「私達の命日は遅くとも三月一杯中になるらしい。死があんなに怖ろしかったのに、私達は既に与えられてしまった」「世の人にほめられる嬉しさもある。大君の辺に身を捧げた安心もあるに違いない。けれども母にとっては私の死は最後でしかないであろう。母のことを考えると私は泣くより仕方がない」「大君の辺に死ぬ願いは正直の所まだ私の心からのものとはいいがたい。だが大君の辺に死ぬことは私にさだめられたことである。私はそれを、私はこの道をたどって死にゆくことにより安心の境に入れることを、心から信じている」「私は戦死に心惹かれる。だが考えてみるとそれは逃避でしかない。死は与えられているとはいえ、与えられる(現実に実際)時まで私は生への執着を保とうと思う。又保たねばならない。」

特攻隊員としての死を迎えて、林少尉はこう書き遺します。
「私はこの頃毎日聖書をよんでいます。よんでいると、お母さんの近くに居る気持がするからです。私は聖書と賛美歌と(を)飛行機につんでつっこみます。」「何だか夢のようです。明日は居ないのですからね。昨日でて征った人々がしんでいるとは思えません・・・でもあっさりあきらめて下さい。『死にし者は死にし者に葬らしめよ』です。・・・あまり悲しまないで下さい。・・・我々にとりて『生くるはキリストなり死するも又益なり』です。これが誠に痛切に思われます。・・・なごりはつきませんね。お別れ致します。市造は一足先に天国に参ります。天国に入れてもらえますかしら。お母さん祈って下さい。お母さんが来られるところへ行かなくてはたまらないですから。お母さんさよなら。」(大貫恵美子『学徒兵の精神誌-「与えられた死」と「生」の探求-』岩波書店)
キリスト者であり軍人であった方で、その生き方について紹介したい人もほかに大勢います。捕虜となった豪軍空軍将校らをニューギニア西方のアンボン島で上官の命令で斬首刑に処し、戦後に戦争犯罪人として処刑された片山日出雄海軍大尉もその一人です。今回は私の調査不足で、本人の遺稿集があるにもかかわらずそれに接していない為、詳しい紹介はできません。ただ、「下級のものは上官の命を承ること実は直に朕か命を承る義なりと心得よ」と、軍人勅諭を通して教育されていた帝国軍人として片山大尉は捕虜の処刑を

「私はクリスチャンとして人を処刑することなどは大いに躊躇されました。しかし、召集将校とはいえ武職についているものです。司令が処刑を命令され、将校は将校を以って執行するのが礼儀であると私共に指令された以上、これを拒否することは軍律上、なし得ないことです。」(今村均『今村均回顧録』芙蓉書房出版)

と受け容れて実行しました。片山大尉はラバウル島の豪軍収容所で処刑されました。死刑台上で「とくに許され、英語で最初に主の祈りを、次いでこれも英語で、日豪将来の親善と、収容所職員一同の幸福に対する祈りを捧げ」て刑死します。

上記で紹介した3人のうち1人は戦争を生き延びましたが、今に至るまで自己の戦争に関する責任を深く自覚して牧師として神の召しに応じ続けています。1人は特攻「志願」という形で戦死を強いられました。そして1人は国家が強いた生き方によって死刑台に至りました。

事前の考えではこのほかにも、権力の地位にあって国策を推進したキリスト者や戦後キリスト教に導かれた人々、或いはキリスト教に深い理解と共感を抱きつつ入信には至らなかった人々のことも紹介する予定でしたが、時間が不足するおそれがあり、書面での紹介にとどめたいと思います。

以下書面による紹介
3.武藤富男満州国国務院総務庁弘報処長
武藤氏は戦後明治学院名誉学院長、恵泉女学園理事長、東京神学大学理事長、教文館会長などを歴任した方ですが、戦前は満州国の高官として国家神道の普及に努めた経験があります。1940年(昭和15年)に満州国の「建国神」が「考案」された時、天照大神を祀る「建国神廟」の創建発表の責任者となりました。

「この日(1940年7月15日)午後7時、私は新京放送局から日満放送を用い、全満州国と全日本に向かって解説的な放送を行った。・・・このことが皇帝の本願から出ていること、そして皇帝は『肉体によれば愛新覚羅(清朝の皇室の姓)の子孫であるが、精神においては万世一系の皇統につながるものであり、この度のことにより、皇帝は日本の皇室の養子になったものと言いうる』としめくくった。・・・後日談になるが、私のこの放送を批判した人物は、私が昭和17年3月、張景恵総理の随員として渡日した時、面会した信仰上の恩師佐波亘牧師であった。二年近くもたったのに、佐波牧師は私の放送を覚えており、『君、あんな放送をしては、良心が咎めただろうね』と言った。『すみませんでした』とだけ私は答えて、それ以上弁解しなかった。実は『肉体によれば愛新覚羅の云々』ということばは、新約聖書ロマ書1ノ3、4にある『御子は肉によれば、ダビデの裔より生まれ、潔き霊によれば、死人の復活により大能をもて神の子と定められ給えり』を模した私流の表現であった。
民族宗教が世界宗教にひろがっていく歴史の動きを、建国神廟の創建にあてはめて、聖書のことばを隠し、その表現の型を借りて放送に用いたのである。佐波牧師はこのことにより、私の内心に信仰的苦悶があったと推察した、ととれる。しかし、私は建国神廟の創建を信仰的なものと考えず、政治的事件ととっていたので、ロマ書のことばを用いても、良心の苦痛は感じなかった。人によっては私のこの態度に対し宗教的批判があるであろう」(武藤富男『私と満州国』文藝春秋)
後に武藤氏は東京裁判で星野直樹被告の弁護側証人となり、「満州国は国民に神廟礼拝を強いたことはない。満州国はユートピアを目指し、ヒューマニズムに根ざして建国された」と証言します。そして「これは満州国官吏としての私の信条であった」とも語っています。率直に言って私には、それは武藤氏の主観はともかく事実と全く反している、という思いがありますが、著書の後書きで武藤氏は「満州国の歴史的意義について、これを論ずべき資格は私にはない。しかしこの国の建設にたずさわった私には、幾多の奢りがあった。それは神の前に罪として告白せねばならぬところである」とも告白しています。

なお、キリスト教に深い共感を抱き、子息からも洗礼を受けるよう強く勧められながら入信することの無かった人物に今村均陸軍大将がいます。今村大将が聖書と歎異抄から得た独自の宗教観のもと、戦後自宅で謹慎し続けて戦争について責任を取るべく努めたことは有名ですが、ここでは部下の戦争犯罪の責任を問われて収監中、受洗を勧める子息に送った手紙の一節を紹介するにとどめたいと思います。

「君が私の霊の救いのために躍起に心配してくれることは実に有難く感謝するが、不自然の合致よりは統一ある差別の方が本当であると私は考えている・・・。軍人最大の道徳である、国家に対し勝利を持ち来たすことを果たさず、今日の大悲惨事を国民におかけし、私にあずけられた部下の幾万をむだに死なしている。刑務所で私の旧部下に残虐な暴行を加える白人職員の行為を見ては、『彼らを赦し給え、そのなす所を知らざればなり』とはどうしても祈れず、非常な憎悪の念にかられて抗議に我を忘れてしまう。心が平静にかえるためには二日も三日もかかり、その間心は怒りにもえ立っている。『わが欲する所の善はこれをなさず、欲せぬ所の悪はこれをなし』、いつも『ああ、われ悩める人なるかな』の嘆きだけをくりかえしている。・・・遂に完全なる信仰は得られず、天国とか浄土とかに生まれる希望も全くない。けれども『そのうち最も大なるものは愛なり』の、その神の愛が、自分のような悪人をも捨て給わずに摂取して下さっていることだけは、絶対に疑っていないのである。この愛が存在することにより私のような者の祈り、即ち『私のために無益に死んで行った部下の霊をみもとに召し給え』・・・の悲願は聞き入れられるにちがいないと思っているのだ。」
(今村均『続・今村均回顧録』芙蓉書房)

発題を終えて
僅かな間でしたが、今回の発題を通じて思い知らされたことは、戦争が罪悪でなくてなんであるか、ということです。戦争での殺人は殺人ではない、人権を守るために、その国の人を助けたいので戦争をする、といった主張はいまでも日本で、そして世界中で公然と溢れています。しかし人間ひとりの人生を抹殺し、狂わせ、互いに殺し合わせることが罪悪でなくてなんでしょうか。
悲惨という言葉も軽いであろう先の戦争で日本は膨大な人々の命と全人生を失いました。そして被害者であると共に、残念というほかありませんが加害者になりました。二度と戦争を繰り返さない、という言葉は余りにも多くの場で言われているので「陳腐化」してしまうおそれがありますが、それでもその決意を常に再確認していくことは大切だと思っています。そしてキリスト者としては、国家には服従するが、国家が明らかに神の与え給うた倫理と相反する行動を取ろうとする時には、先人の苦しみを無駄にするのではなく、その先人の苦しみを思って「悪より救い出だし給え」と祈りつつ悪に抵抗する勇気と力と智慧を与えてくださるように祈り、それを実践することだと思います。社会でのさまざまな立場、政治、思想の考えを越えてキリスト者として平和を祈り求めていく姿勢を教会員の一人として持っていこうと考えています。

終わりに、先の戦争で命を奪われたすべての人々に主なる神が御慈愛を賜るように、そして先人と私たちの罪をどうか御赦し下さるように祈ります。

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