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述懐と祈り 内村鑑三先生に倣って

私は間違いなく主の御前に大罪人である。「小人」である。しかし小人であることを言い訳にして実践を怠ってはならぬ。

「享安山人」。この筆名を用いてはや10年以上になる。愚かな言動もあった。いまだに顧みるも恥ずかしい。しかし、多くの人の励ましもあった。自らこの筆名によって人に与えてきた印象に恥じないようにとも思う。

私は本然は徹底した罪人である。だが、それを敢えて努力で、変えることはできずとも、せめて蔽わんとしてきた。或いは之を偽善者と呼ぶだろう。しかし、せめて己の本性を偽ってでも、私は善につとめたい。

主よ、私をして主に倣わしめ給え。せめて先人の跡を履ましめ給え。

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コメント

私には、享安山人さんみたいな罪の意識はまったくといってよいほどないですから、こういう文章を見るとよく理解できないですね。
キリストが、おのれらの内罪なきと思うものは、石を投げるべしですか、ある遊女の話、新約のどこか、もう数十年聖書は見ないから分かりませんが、ああいう場面は結構うなずけますね。
然し罪の深さに苦しむとかは、全く理解できないです。
海舟先生は、法華経を読んで、おのれの罪業を随分と苦しんだとか、海舟語録かなんかにありますが、何を苦しんだのか、これは多分西郷さんと一脈通じるものがあったのかと想像できます。
我が罪はと問われれば、ここでは書けませんが、創業の会社がなくなったことでしょうね。以って今は世捨て人と堕しております。一切世間へは出ないことで、隠れておることで、生涯を終えたいと思っておりますが、それでもみなどうなったのかなーと気にならんわけではない。特に昨今の時勢を見れば、一段と気になりますね。
それでも、なるべくしてなったが、我が達観、諦観です。防ぎようがなかった。どう考えてもそうなるしか道はないが、今の達観、諦観ですね。
だからといって我が罪に苦しむということは、享安山人さん程には全くない。
以ってどうしようもない、救いようのない愚物というのが実体でしょうね。 呵呵大笑、と。

勝手に想像を書きます。勝先生や、西郷さんの一脈について。
想像するに、多分、勝先生も、西郷さんも、一脈通じると思うのは、信じて幕府を壊したり、なくしたり、或いは武士階級を全く壊した。その結果を見ながら、西郷さんは明確に戊辰の役もひたすら私を営んだと涙を流したと述懐しておりましたが、同じ感慨は、幕府を葬った勝先生にもあったのではないのでしょうか?
そういう意味での罪の意識を、勝先生は法華経に託されたのかと思います。
幕府や、武士階級をなくす為に邁進した結果が、、、、、、これであるとは、、、、元田永孚を勝先生は随分と誉めてましたが、サムライ、武士の心を何とか育成せねばは、罪の意識と共に、随分とあったのかと想像します。
稲垣さんは、明確に西郷さんの無念を知らせる為に一生懸命ですね。
最後で最大のは、内村鑑三の西郷さん評、
今朝は勝手なことを、勝手に書かせていただきました。
ハローワーク、随分と列との由、日本国や世の中、どうなって行くのでしょうかねー。

こんばんは。私が「罪の深さ」に悩むのは、循環論法ですがまさに私が神の御前に罪人だからとしか申し上げようがありません。私の信ずる主なる神が、その罪深さを教えてくださった、と。「人の心は、とらえがたく病んでいる。」と旧約のエレミヤ書にはあります。つい先ほどまでは善を志したかと思えば、次の瞬間には悪念のみを思う。そういう己の病みきった心と行い、それを救ってくださるのが主イエス・キリストだと。イエスと遊女(或いは姦通の女)の話はヨハネ福音書に出てきます。古来数多の人々に深い響きを与えてきた主の御言葉です。

ただ、私の言う所の罪は、自分自身の内奥を見てのもので、海舟先生や南洲翁からすれば、天下の為ではなく自己一身の為に苦しむのみ、と喝破されるかもしれません。

明日は両陛下の御成婚50周年とのこと。民の一人として寿ぎ奉ります。取り敢えず今日はこれで失礼致します。

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