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淳仁天皇陵にて

天平神護元年(七六四)十月庚辰【廿二】》○庚辰。淡路公、不勝幽憤。踰垣而逃。守佐伯宿禰助。掾高屋連並木等、率兵邀之。公還明日、薨於院中。

拙訳 天平神護元年(764年)10月22日。庚辰、淡路公(淳仁天皇)、幽憤に勝へず、垣を踰へて逃ぐ。守佐伯宿禰助、掾高屋連並木ら、兵を率ゐて之を邀ふ。公、還りて明日、院中に薨ず。(続日本紀)

先日日曜日、父と共に車で淡路島の淳仁天皇陵に詣でてきた。天皇陵は車で大阪から2時間弱、淡路島のほぼ南端にある。

淳仁天皇の御代には時の権力者、藤原仲麻呂(恵美押勝)の儒教的政見による徳治が大いに行われ、「貧窮問答歌」や「防人歌」に見られる民の困窮を少しでも防ぐべく朝廷による積極的な施策が行われた。しかし天皇が孝謙上皇と道鏡の仲を諌められたことに端を発し、順調に見えた治世に綻びが生じてくる。この諫言に激怒された上皇が、激しく天皇を非難し、天皇から政治大権を剥奪する宣命を発せられたことにより、淳仁天皇はただ祭祀のみを行う存在となり、天皇を擁していた仲麻呂は政権の源を失う形となる。そして遂に追い詰められた仲麻呂は挙兵するも敗北、六男がかろうじて助命された他は、新たに天皇として擁立した天武天皇の孫・塩焼王や己が妻子と共に琵琶湖畔で悉く斬殺された。

淳仁天皇は、仲麻呂と上皇を除こうと謀っていたとの罪で廃位を言い渡される。御所の中宮院を突如数百の兵に囲まれ、近侍の者は殆どが逃げ出し、御自身は衣服も履物も付けられずに引き出されての宣告であったという。そのまま天皇は馬に乗せられて淡路へ護送された。

そして、幽閉1年にして上記の文が史書に載せられる。「公、還りて明日、院中に薨ず」自然な形での崩御ではないだろう。平城京には「淡路公」に貶せられた天皇に同情する者がおり、また商人に変装して淡路島に向かう者も多かったという。そのような淳仁天皇復位の動きに怯えた称徳天皇による謀略とも疑われる。

孝謙上皇(称徳天皇)の淳仁天皇への憎しみは激しい。「言うまじきことを言い、なすまじきことをした」「位にいる能力は無い」「志が愚かで心根が善くなく、天下を治める器量が足りない」。これらは称徳天皇が群臣に下された宣命の一部である。そして不可解な崩御。これらの宣命を聞いた文武百官は、嘗ては若き天子・淳仁天皇の即位を寿ぎ、「皇帝陛下万歳」を唱えた人々でもある。彼らの胸中について記されたものは遺されていない。しかし、これらの毒々しいまでの宣命を平然と聞き流せる廷臣は決して多くはなかっただろう。

陵前では手を合わせつつ、一人の基督者として天皇の御霊の安息を祈った。付近の山々の形はおそらく奈良時代とそう変わってはいない筈である。最期の息を引き取る前に天皇が御覧になったのは、或いは同じ山々かもしれない、そう思いつつ陵を後にした。

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