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講演『ドイツの公立学校における宗教教育』を聴いて 雪の積もった日に

今日は大阪の市街地には珍しく雪の積もった日だった。雪で数分遅れの京阪電車に乗り京都市上京区のNCC(日本キリスト教協議会)宗教研究所で開かれた講演会に赴く。京都御苑の西隣に位置している。雪景色の御苑が目に映えた。

講演者はドイツで宗教教育担当教師を務めているクリスチャン・ヴェンデボルク牧師。宗教教育の教科書も執筆されている。英語での講演を同研究所の方(同じくドイツ人らしい)が日本語で要約するという形での講演だった。耳を傾けつつ今更ながら自分の英語能力の無さを恨む。好む好まざるにかかわらず、英語が「国際語」になっている現実。

日本では憲法により国の機関による宗教教育が禁じられているのに対し(これはフランスも同じ)、ドイツでは「学校で宗教を学ぶのは権利である」との考えが行き渡っているという。また、政教分離については国家と宗教は相互に独立しつつ、不干渉だが、社会福祉、医療、教育などの公共の利益にかかわることには積極的に協力関係を持つのだと。児童生徒が宗教教育を受けるかどうかは親が決め、おもにカトリック、プロテスタントに分かれて授業を受けるらしい。どちらにも属さない生徒は「倫理」の授業を受けるのだそうだ。基督教徒が圧倒的多数であったドイツの歴史的状況に即したものといえるが、文字通りの多神教社会で属する宗派もばらばら、且つ「無宗教」を標榜する国民の多い我国でドイツ式を適応できるかといえばかなり難しいだろう。

ヴェンデボルク師の話で特に心に残った言葉がある。

「人間とは何か。これを国家が答えたら、全体主義になる」。それは宗教の役割だというのだ。ナチスや旧東独の歴史を背負う現在のドイツが出した答えのようだ。

聴講者からは「ドイツの宗教教育は信仰を育むものか、それとも宗教についての知識を与えるものか」との質問があった。これに対しては「目的は『中間』である。単純に信仰を伝えるとかではない。基督教に対する批判的な態度も養う」とのこと。よく聴き取れなかったが、フォイエルバッハなどを参考にするようだ。「多元主義的な社会で緊張の中に生きる事を学ぶ」とも。

我国での宗教に対する無理解が論じられて久しいが、その解決への手がかりを与えられたようにも思った。3時間以上に亘った講演会が終わり、同じ教会の方々への挨拶を終えて研究所を出ようとすると、ヴェンデボルク師が出口で待っておられた。握手の後片言のドイツ語で「ありがとうございました。さようなら」と述べ、今度は同じく片言の英語で「大学でドイツ語を学びましたが、殆どしゃべれません」と言うと、笑っておられた。

雪の京都御苑を通り帰途につく。途中、遠く北に建礼門と御所の屋根を仰ぎ見て皇室の歴史を偲んだ。有意義な一日を過ごせたと思う。

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