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浅見絅斎「仰ぎて君となす者は、独り天子あるのみ。天子を措きて節を侯伯に屈するは、臣子たる者の徳に悖るものなり」

浅見絅斎は江戸前期の朱子学者である。主著として中国歴代王朝の忠臣義士8人の言動を中心に臣下の在り方を説いた『靖献遺言』がある。最近私はその注釈書である法本義弘『靖献遺言精義』(国民社、昭和19年)を古本市で偶然見かけて購入、読み進めている。

私が浅見絅斎と『靖献遺言』の存在を知ったのは、山本七平『現人神の創作者たち』(近くちくま文庫から再刊)においてであった。山本自身は、戦前の現人神天皇崇拝の発端として、絅斎らの朱子学には批判的であるが、尊王を説くその学問が江戸前期という幕府の興隆期ではまさに現実に民衆の上に臨んでいた権力への批判に他ならなかったことは考慮されねばならない。表題の絅斎の言葉は、現実の権力者である幕府諸侯には仕えず、終生惟天子のみを君として仰ぐ覚悟を示したものである。

私が読んだのは『靖献遺言』のうち最終巻の「絶命辞―方孝孺」である。明の建文帝に忠節を尽くし、内戦に勝利した簒奪者燕王(永楽帝)に飽く迄抵抗し続け、終には本人のみならず血族、知友、弟子に至るまで千人以上が虐殺されるという惨事を記している。方孝孺の他にも建文帝に殉じた多くの忠臣たちの言動が併せて語られている。建文帝と燕王の内戦の顛末は幸田露伴『運命』などに詳しい。

方孝孺の忠義を封建道徳と謗り、頑迷固陋と哂うのは現代人には容易いことである。燕王に降伏さえすれば身の安全は保たれ、後の栄達も保障されるのだから。自分と家族の命を棄ててまで主君に忠義立てする必要などあるのか、それこそ主体性の無さの現われではないのかと。しかし、燕王に降った他の重臣たちに主体性はあったのだろうか。建文帝が朝廷に君臨していた頃は尽忠報国を唱え、燕王を逆賊と罵り、数多の将兵を死地に赴かせながら、形勢が逆転するや己の命惜しさに前言を翻して逆賊を天子として奉戴したのではなかったか。

私は方孝孺の行為を無条件で賞賛するのではない。単に彼の血縁である、知友である、弟子であるというだけで捕らえられた人々を目の前に示されても孝孺は燕王に降らなかった。そして彼らは孝孺の眼前で虐殺されていった。老若男女を問わず。最も憎むべきはこのような非道を為した燕王である。しかし孝孺が形だけでも降れば彼らは助かったであろう。自分の忠誠心がこの上なく愛する人々を死なせていく。これほど残酷なことはあるまい。ある別の忠臣は、一旦燕王に降り家族の身を守り、王の即位詔書を起草した後自決したという。そのような途を孝孺は選べなかったのだろうか。

多くの人々の死の後、孝孺は口を端から両耳まで抉られ、磔刑に処せられた。「絶命辞」の最後に言う。「嗚呼哀しい哉。庶くは我を尤めざれ」と。

「こひねがはくはわれをとがめざれ」。

法本はこの詞を「死を以て君に殉ずる以上、この者は不忠不義の人間であつたといふ尤めは受けぬであらう。」としている。しかし、私の解釈は違う。「どうか私をとがめないでほしい」ここに、孝孺の、死んでいった数多の人々への痛切極まりない思いを見るのである。

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